研修医の “カウンター”パンチがかなり効いたから 湿布薬を買ってきてくれと言って、氷河は瞬を その場から立ち去らせた。 嘘と承知の上で(多分に不本意そうだったが)瞬は大人しく 店を出ていった。 氷河が瞬に席を外させたのは、恋に遅れてやってきた男の心を慮ったからではない。 研修医の気まずい立場を考慮したからでもない。 いわゆる 男同士の話をしようとしたわけでも、研修医に武士の情けをかけようとしてのことでもない。 そうではなく――氷河は、自分の立場を守ろうとしたのだ。 喧嘩をしたこともないのに、この店のバーテンダーに飛びかかってきた研修医の必死の目。 氷河には、感じ取れたのである。 この男は、瞬の心を揺り動かすことのできる何らかの力を備えている――と。 そして、氷河にとって、瞬との恋は、その障害が 生まれたばかりの子兎のように非力な存在であっても全力で排除し、必ず死守しなければならない大切なもの。 投げつけられる小さな石つぶてに対しても、堅固な城壁を築いて万全を期さなければならないほど 価値ある宝だったのだ。 カウンター席に着いて 氷河と向かい合うのは嫌であるらしく、研修医はテーブル席に着いている。氷河も、この店のバーテンダーでいることをやめるために、カウンターの外に出ていた。 「最初に瞬に会ったのはいつだ」 氷河が研修医に そう尋ねたのは、彼が一目惚れなどという軽率な恋をするタイプの男でないのなら、彼には 以前に瞬との出会いがあったのだろうと思ったからだった。 その推察は当たっていた――のだが。 「十数年前――僕は6歳だった」 氷河の推察は当たっていたのだが。 氷河が推察していた“以前”は せいぜい この1年以内だったのに、研修医の答えは その十数倍。 この研修医が6歳だった頃なら、瞬はまだ10代半ば。 研修医の恋には、氷河の想像以上に長い歴史があったようだった。 「あれは、花が終わって 桜の木が緑一色になった頃で――僕は、公園で自転車に乗る練習をしていて、何の拍子だったか、公園から車道に出てしまったんだ。そこにトラック走ってきて、僕はトラックに轢かれそうになった。トラックが すぐ目の前に迫ってきて、身体がすくんで動けなくなっていたのを憶えている。でも、瞬先生が助けてくれたんだ。トラックの前で動けなくなっている僕の身体を抱えて、鳥のように飛んで。何が起こったのか、僕には すぐにはわからなかった」 研修医が小学校に入学して早々。 それは、では、瞬が聖闘士になって日本に帰国したばかりの頃のことだろうか。 氷河は、瞬から そんなことがあったという話を 聞いたこともなかった。 おそらく それは瞬にとっては 仲間たちにわざわざ報告する必要を感じるほどの大事件ではなかったのだろう。 しかし、幼い研修医には、それは 彼の世界を揺るがす大事件だったのだ。 『大丈夫?』 と瞬に訊かれ、難が過ぎてから やっと実感できるようになった恐怖心に駆られていた幼い研修医は 瞬にすがって わんわん泣き、瞬は そんな研修医に、 『大丈夫。大丈夫だよ。泣かないで』 と言って、優しく髪を撫でてくれた――のだそうだった。 「それが、公園前の交番の真ん前での出来事で――。交番から飛び出てきた お巡りさんは、僕に名前や住所を言わせて、親に連絡すると言い出した。僕自身は 擦過傷 一つ負ってなかったし、自転車も無事だったのに、どんどん大ごとになっていくから、僕は別の意味で恐くなり始めていた。両親に怒られるだろうと。そうしたら、瞬先生が、それを察したみたいで、『誰にも 怒られないようにしてあげるよ』って言ってくれたんだ」 瞬は、研修医の母親に電話で連絡を入れようとしていた警官に、 『大丈夫だとは思うんですが、万一の時のために、この子を病院に連れていって検査をしてもらってきてもいいですか。彼の お母様には 病院の方においでくださいと 伝えてください。あ、もちろん、お子さんは無事で、あくまで万一のことを考えてのことだと』 と言ったらしい。 そして、なぜ そんなことをするのかと訝った小学生の研修医に、瞬は、 『病院に行ったと聞けば、お母さんは 君のことを心配して、怒るどころじゃなくなるでしょう?』 と微笑んで答えた。 そうして 研修医は、すべてを このお姉さんに任せておけば大丈夫だと、すっかり安心してしまった――のだそうだった。 『僕は、この先の――』 『知ってます。城戸邸の美少女の片割れ――あ、いや』 『ええ』 警官と瞬のやりとりで 瞬が怪しい人物でないことがわかり、その上、パトカーで病院まで送ってもらえることになって、両親の叱責を恐れていた小学生の研修医は 完全に浮かれ気分。 ませていた小学生は、その日 初めて出会った優しく賢く綺麗な お姉さんに、あろうことかパトカーの後部座席でプロポーズするという暴挙に及んだらしい。 『僕、お姉さんを僕のお嫁さんにしてあげるよ』 と。 幼い研修医は、幼稚園、小学校と 女の子にはもてていて、自分の“お嫁さん”になることは 相当の価値があることだと信じていた。 『大人になったら迎えにいくから、それまで待ってて』 大真面目な顔で研修医に告げられた瞬は、笑って、 『その時を待ってるよ』 と答え、小学生だった研修医のプロポーズを受けてしまった――らしかった。 「瞬先生の目論みは当たって、僕は両親に叱られずに済んだ。あとで交番で 瞬先生の連絡先を確認した母が、『あの家のお嬢様じゃ、どんなお礼を持っていっても 喜んでもらえるとは思えない』と言うのを聞いて、僕は 瞬先生が 僕には高嶺の花だということを知ったんだ。でも、僕は ずっと瞬先生のことを忘れなかった――忘れられなかった。瞬先生が医大に入ったという話を聞いた時、僕は、僕も医師になれば、あの大きなお屋敷のお嬢様に釣り合う男になれると気付いて――そう思い込んで、猛勉強をして瞬先生の後輩になった……」 それは、まかり間違えば 助けに入った瞬自身も事故に巻き込まれて命を落としていたかもしれない大事件である。 アテナの聖闘士である瞬には 仲間に報告する必要も感じられないほど些細な出来事だったのかもしれないが、一般人の、しかも小学生になったばかりの子供には、それは途轍もない大事件だったのだろう。 それほどの大事件を瞬が忘れているはずはないと、研修医は信じていたに違いない。 忘れることなど あり得ないと。 「瞬先生は、嬉しそうに笑って、『その時を待ってる』と言ってくれたんだ」 それは おそらく、自分が助けた小学生に再会することはないと、瞬は思っていたから。 怪我一つしなかった事故のことなど、まして パトカーの中でのプロポーズのことなど、小学校にあがったばかりの子供は すぐに忘れてしまうだろうと、瞬は思っていたのだ。 そして、ついに再会成った途端、研修医は 瞬が自分と同性だということを知った。 それでも諦めてしまうことができずにいた矢先に、彼は、瞬が この店のバーテンダーとキスをしている場面に出くわしてしまったのだ。 「『待ってる』と言ってくれたのに……約束したのに――。なのに、瞬先生は待っていてくれなかった……」 研修医が、消沈して――否、むしろ、彼は憔悴しているように見えた――呻くように呟く。 約束を交わした時は小学校にあがったばかりの子供だったとはいえ、今は それなりの分別を備えた成人した大人である。 彼は、絶対に その約束が実現すると盲信していたわけではなかっただろう。 だが、この男の心から“もしかしたら”という思いが消えることはなかった。 『“もしかしたら”あの約束は叶うかもしれない』という希望は、常に この男の胸の中に あり続けたのだ。 その約束が、よりにもよって こんな形で破られた。 研修医の憔悴は 無理からぬものだったろう。 |