最強の敵






常の人間ならば、まず耐えられない修行をしてきたと思う。
実際、その修行に耐えて アテナの聖闘士の証である聖衣を手に入れることができた子供は、城戸邸に集められた100人中10人。
小宇宙を生み、それを敵対者と戦う力に変えるという行為そのものが、既に常軌を逸している。
100人中10人もの子供が その力を得たということは、むしろ奇跡的な高確率だったと言っていいだろう。
その上、その10人の半数に当たる5人が、その力をもって戦った敵というのが、同じように常軌を逸した力を持つアテナの聖闘士、そして、人間世界を滅ぼさんとする神々と その神々の命を受けた闘士たち。
あげく、生きたまま、死者のみが赴くことのできる冥界に行き、神と神に選ばれた者だけが至ることが許されるエリシオンの野で神と戦い、更には、時の流れに逆らって過去に飛ぶようなことまで経験した。

そんな人間である自分の上に何が起こっても 不思議ではないと思う。
自分は 並大抵のことでは もう驚かないし、驚けないだろう。
そう、瞬は思っていた。
それでも――そんな瞬でも――その日、その時、我が身に何が起きたのかを、すぐに理解することはできなかったのである。
なにしろ、断片的にではあったが、未来が見えた――未来の出来事や 未来の自分の姿が見えてしまったのだから。
アンドロメダ座の聖闘士である自分が、大人になり、乙女座の黄金聖闘士を その身にまとって敵と戦っている。
その様が、まるで過去に経験したことであるかのように、瞬の記憶の中に刻み込まれていたのだ。


季節は秋になっていた。
晴れた日の朝、いつものように目覚めた瞬は、自分の記憶が一夜にして、少なくとも10年分は増えていることに気付き、ベッドの上で呆然としてしまったのである。
(え…… !? )
いったい なぜ、こんなことが。
瞬が 咄嗟に思い浮かべたのは眠り姫の物語だった。
あの物語の姫君のように――自分は たった一晩 眠っただけのつもりだったのに、その一晩のうちに十数年の時間が流れてしまったのか。
そう、瞬は疑ったのである。
だが、そこは見慣れた城戸邸の自分の部屋で、室内の様子も 窓の外の景色も 昨日と何も変わっていない――何も変わっていないように、瞬の目には映った。

我が身に何らかの異変が起きている。
そう自覚するや、瞬はベッドから飛び起きて、造り付けになっている衣装棚のドアを開けた。
ドアの裏面は姿見になっている。
その鏡に自らの姿を映し、瞬は 自分がまだ10代の少年の姿をしていることを確かめた。
ちょっとした小部屋といっていいほどの広さを持つ衣装棚の隅に置かれている聖衣櫃も、アンドロメダ座のもので乙女座のものではない。
瞬が一晩と認識していた時間は、やはり一晩にすぎなかった――ようだった。
では、いったい何が起こって、自分の中に 自分が経験していない記憶が存在するようになったのか?
自らが10代半ばの少年であることを確認した瞬は、その謎の答えを探さなければならなくなってしまったのである。

未来で 何か時の法則を乱すようなことが起こり、未来の自分の心が、今の自分の身体に飛び込んできたのではないか。
瞬は まず、その可能性を考えた。
だが、すぐに そうではないと思う。
瞬の心は、間違いなく 今の自分――10代の、アンドロメダ座の聖闘士のそれだった。
心ではなく――まるで 誰かが“未来の瞬”の記憶の一部を切り取ってきて“過去の瞬”の脳の記憶域に貼りつけたような、この事態――現象。

これは いずれかの神の仕業なのだろうか。
また 時の神クロノスが いたずら心を起こし、こんなことをしでかしたのか。
だが、クロノスに こんなことができるだろうか。
これは 時の神の領域での異変ではないように思える。
これは むしろ、記憶の神の領域といえるのではないか。

自分の中にある、経験した覚えのない記憶。
突然 増えた記憶の量が膨大すぎて、瞬は、心も感情も考えも すぐには整理しきれなかった。
整理しきれないまま 思ったのは、『同じことが仲間たちの身にも起きているのだろうか』ということ。
もし そうなら、なぜ こんなことが起きたのか、その答えは皆で考えた方がいい、
ともかく、それを確かめてみようと考えた瞬は 着替えて階下に下りていくことにした。
部屋を出たところで、ちょうど隣室から出てきた氷河に出会う。
仲間の姿を見た氷河が僅かに驚いたように見えたので、同じ異変が氷河にも起きているのかと、瞬は思ったのだが、どうやら そうではないようだった。

「今 起きたのか? 珍しいな、おまえが今頃 起きてくるとは」
氷河が驚いたのは、そんな些細なことについて――だったらしい。
氷河の上には何の異変も起きていないらしい。
安堵すべきか、落胆すべきなのかを、瞬は暫時 迷った。
「あ……違うの。あれ、僕、いつもより遅い?」
「もう7時半をまわっている。いつもなら、おまえはジョギングを済ませて、ラウンジか食堂にいる時刻だろう」
「あ……」

昨夜から今朝にかけて、自分の上に何か起きたのは事実のようだった。
氷河の言う通り、平生の瞬はいつも6時には自然に目が覚めていた。
アンドロメダ座の聖闘士の起床が7時を過ぎるという事象は、些細な変事だったが、立派に“驚くに値すること”だったのだ。
そして、そんな些細なイレギュラーに驚いていられるということは、氷河自身は普段通りの日常の中にいるということ。
彼の上には、どんな異変も起きていないということだった。
してみると、この異変の最も重要な謎は、『この異変が、なぜアンドロメダ座の聖闘士の上にだけ起きたのか』ということなのかもしれない。
それこそが、この謎を解く鍵なのかもしれない。

そう考えるしかなくなった瞬は、ひどく憂鬱な気分になってしまったのである。
幼い頃に出会い、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たち。
苦しい時にも、悲しい時にも、常に共に在った仲間たち。
同じ喜びを喜び、その幸福を自分の幸福だと感じることのできる仲間たち。
彼等と“瞬”が際立って異なる点といえば、“瞬”はハーデスという神に その心身を支配されたことがあり、“瞬”の仲間たちは そんな事態を経験していないということだった。
その経験の有無――相違が、この異変に関わっているかもしれないと考えざるを得ないことは、瞬には全く楽しいことではなかったのだ。






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