「瞬……?」 名を呼ばれて、はっと我にかえり、顔を上げると、そこには、自分と同じ10代の氷河がいた。 瞬の頬に触れていた氷河の手が、ふいに瞬に身を引かれたせいで、所在無げに宙に浮いている。 彼は、瞬のあげた悲鳴じみた声に 少なからず驚いているようだった。 そして、仲間の狼狽の様を訝り、案じている。 今 瞬の前にいるのは、瞬の知っている氷河。 あんな卑俗な言葉を口にすることはない(はずの)氷河だった。 様子が尋常でない仲間の身を、氷河は心から心配してくれている。 瞬は、自分の中で 起こっている異変を 氷河に知らせるわけにはいかなかった。 自分の心の中で起こっている変事を、氷河に知られるわけにはいかない。 「あ……な……何でも――」 『自分が感じていることは、おまえにも わかっているんだろう? そして、そのことを俺に隠せないことも わかっている。誰よりも美しい姿と、地上で最も清らかな魂と、神に匹敵するほどの力と、並外れた聡明、素晴らしい身体を持っている、バルゴの瞬。あとは 正直になるだけだ。それで おまえは、俺の最高の恋人になる。さあ』 氷河が あまりに奥まで入ってくるので、苦しくて息ができない。 貫かれているのは 未来の瞬の身体だというのに、氷河と触れ合っていない今の瞬の身体の奥が疼いて――勝手に蠢いて、瞬は自分の足で立っていることが難しくなってきていた。 このまま倒れるか、いっそ 実際に氷河に 記憶の中の彼と同じことをしてもらいたい。 そんなことを思ってしまうほどに 苦しい。 瞬の身体は、小刻みに震え始めていた。 氷河の手は瞬から離れている――氷河の手は もう瞬に触れてはいないのに、今朝 突然 瞬の中に植えつけられた未来の記憶、経験した覚えのない異様な記憶が、今の瞬を蹂躙していた。 記憶の中の大人の瞬が、苦しげに喘いでいる。 『ああ……氷河……氷河、だめ、僕、もう……』 それは自分の声なのに――第三者の声として聞くと、“瞬”の苦しげな声は ほとんど歓喜だけでできているように思えた。 それとも 氷河によって与えられる歓喜が大きく深く激しすぎて、未来の瞬の中で それは実際に苦痛になってしまっているのだろうか。 『もう 駄目? 乙女座の黄金聖闘士ともあろうものが、何を言っている。だいいち、俺を離さないのは おまえの方じゃないか。俺に食いついて、“もっと”と言っている。もっと俺を欲しいと。瞬、正義の味方が嘘をつくのはよくないぞ』 氷河は本当に嬉しそうだった。 嬉しそうに、歓喜の苦痛に喘いでいる瞬を からかっている。 『嘘じゃない……ほんとに、僕、もう……あああっ!』 未来の瞬は、もう正直になっている。 にもかかわらず、未来の氷河は 瞬を責めることをやめない。 『これ以上 何かされたら、僕は気が狂う!』 それは、見知らぬ大人の瞬があげた悲鳴だったのか、まだ10代の瞬自身の悲鳴だったのか。 そこで、ぷつりと 瞬の記憶は途絶えた。 見知らぬ未来の瞬は、そこで 限界を超えてしまったらしい。 そして、現代の瞬自身も。 新たに植えつけられた記憶の中の瞬の心と身体に連動して、それ以上 自分の足で立っていることができなくなり、ほとんど背中から倒れるように廊下の壁に寄りかかった瞬は、そのまま ずるずると床に崩れ落ちてしまったのだった。 「瞬っ、どうしたんだっ」 「い……いや! 僕に触らないでっ」 「触るな? どこか痛いのか?」 こんな時に、こんな場面で、そんな間の抜けたことを訊いてくる氷河は悪くない。 悪いのは――おかしいのは、自分の方なのだ。 床に へたり込んだ瞬の身体を、氷河が気遣わしげに そっと抱き上げる。 アンドロメダ座の聖闘士を――命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間を恐がっていることを 氷河に気付かせないために、彼の腕から逃れたいと叫ぶ自身の身体を、瞬は懸命に抑えつけた。 瞬を瞬の部屋の中に運び、氷河は ベッドの上に仲間の身体を静かに横たえた。 「大丈夫か?」 そう尋ねてくる氷河の声にも表情にも、仲間の身を気遣う優しさと懸念しかないというのに、そんな氷河を 恐いと思ってしまう自分に、瞬は泣きたい気持ちになった。 あの記憶の中の氷河と、今 自分を見詰めてくれている氷河は 違う人間だと思うのに、あの記憶の中の氷河のように、今にも氷河が自分に のしかかってくるのではないかという恐れを、どうしても拭い切れないのだ。 身体も心も小宇宙も おかしな乱れ方をしている。 氷河に気付かれ、その理由を問われたら何と答えればいいのか。 氷河にだけは その訳を知られたくないし、知らせるわけにはいかない。 今すぐ このまま 余計な詮索をせずに どこかに行ってくれと、瞬は仲間に対して 心の底から思った。 そんなことを氷河に対して思うのは 初めてのことで、そんなことを願っている自分に、瞬は 嫌悪に似た気持ちを抱いたのである。 氷河は、様子が尋常でない仲間の様子を 優しい気持ちから案じてくれているというのに、その優しさを迷惑に感じるとは。 それは、人間の中にある愛という美しいものを嫌悪する冷酷な神々と大差ない高慢ではないか。 幸い、氷河は 今のところ、平生と違う瞬の様子を、単に体調が優れないせいだと思ってくれているようだった。 が、望むと望まざるとにかかわらず、小宇宙で仲間の様々なことが わかり合えてしまう聖闘士同士のこと、いずれ 氷河は これが体調だけのことではないと気付いてしまうかもしれない。 瞬は、やはり 何としても、氷河に ここから立ち去ってもらいたかった。 「医者を呼ぶか? いや、この小宇宙は……沙織さんの方がいいか――」 「だ……だめっ」 アテナに知られるより 氷河に知られる方がまし――と思ったわけではないが、今 我が身に起きていることを アテナに知られることだけは、瞬は避けたかった。 アテナは氷河より様々な事情に精通している上、洞察力もあり、口も上手い。 今 アテナと対峙してしまったら、心の平静を失っている自分は 彼女の誘導尋問に乗せられ、氷河の前で言ってはいけないことを白状させられてしまうに決まっているのだ。 瞬は、その事態だけは、絶対に、何としても 避けたかったのである。 だが、アテナではなく氷河なら安全というわけでは、決してない。 氷河の青い瞳を見ていると――見ないために目を逸らしていると、なおさら その視線を感じて――植えつけられた(だけの)記憶が、瞬の中で どんどん鮮明に蘇ってくるのだ。 大人の氷河に散々 翻弄された大人の瞬は、しかし、それで恥じ入り、委縮してしまわなかった。 氷河に したいことを思う存分 させてやり、彼に そうさせてやれたことに、大人の瞬は満足感と達成感を覚えていた。 瞬に植えつけられた記憶の中では、そうだった。 (今の)瞬には、それが自分のすることだとは 到底 思うことができなかったが――二人で過ごす夜を重ねるうちに、大人の瞬は どんどん大胆に積極的になっていった。 時に、大人の氷河を 自分の思うように操り、氷河のペースを狂わせ、氷河をからかうようなことまでしてのけた。 大人の瞬は、それで意地になった氷河が いよいよ猛々しく凶暴になって、自分に挑みかかってくることを知っているのだ。 氷河が猛り狂えば猛り狂うほど、自分が手に入れる快楽の大きさ深さが増すことも。 そんなことを企んで、氷河の性器に指を絡めていく“瞬”が 自分の未来の姿だということを、(今の)瞬には 絶対に認められなかった。 だが、二人は幸せそうなのだ。 そして、互いに互いを深く愛している。 瞬には 訳がわからなかった。 そもそも これは本当に これから起こる現実の記憶なのか。 それとも――。 「あ……あ……」 未来の瞬が、『僕は 今 幸せだ』と、過去の自分に訴えてくる。 心と身体が燃え上がり、燃え尽き、しかし すぐにまた身体は疼いてくる。 その感覚が どんなものであるのかを、記憶として(実体験ではなく、ただの記憶として)幾度も体験させられ、瞬の心と身体は 乱れ狂ってしまいそうだった。 |