「何かあったのか? おまえ、ここんとこ ずっと、様子が変だぞ。いつも熱っぽい顔してて、目は潤んでるし、時々 上の空になるし、そうかと思うと やたら そわそわして落ち着きがなかったり、泣きそうな顔になったりしてさ。何より小宇宙がさあ――おまえの小宇宙、俺たちの中じゃ、いちばん落ち着いてて 乱れがない小宇宙だったのに、最近 強くなったり弱くなったり、極端なんだよ。突然 途轍もなく大きくなるから、敵襲でもあったのかと びっくりする」 “俺たちの中で”最も天衣無縫、隠す様子もなく 喜怒哀楽や意気の強弱を剥き出しにしているのが常の星矢に――よりにもよって星矢に――呆れたように そう言われ、瞬は いっそ このまま夏の朝露のように消えてしまいたい気持ちになったのである。 「氷河が 側にいる時に、特に極端に変動を見せるようだな」 星矢の観察日記に さりげなく付記を添えてくる紫龍は、おそらく星矢より多くのことに気付き、星矢より多くの原因の可能性を推考しているだろう。 もし 紫龍の考えているアンドロメダ座の聖闘士の変化の原因が 事実より悪いものだったなら、それは 氷河のためにも否定しておかなければならない――と、瞬は思った。 だが、はたして紫龍に 事実――真の理由――より悪い理由を思いつけるだろうか。 それ以前に、未来の氷河と未来の瞬が 度を越して親密すぎるせいで、現在の瞬が おかしくなっている――という事実より悪い事象というものは あり得るのか。 瞬は迂闊に口を開けなかった――迂闊に発言してはならないと 思った。 「えーっ! 最近、おまえの落ち着きがなかったのって、氷河のせいだったのかよ! 氷河が何か したのか? 氷河の奴、ついに我慢の限界がきて、おまえを無理矢理 押し倒したか!」 「……え?」 「馬鹿な。氷河に そんなことができるわけがないだろう。だいいち、双方の合意がなければ、聖闘士同士で それは不可能だ。へたをすると、どちらかが死ぬことになる。ここは もう少し可愛らしく 清らかに、氷河が ついに瞬に告白して、瞬が氷河を意識し始めたというところだろうな」 「氷河がついに……って……?」 「あ、それでだったのか。でも、それにしちゃ、瞬の動揺が毎回 大きすぎるような気もするけど」 「相手は、地上で最も清らかな魂の持ち主だぞ。これまで地上の平和のことしか考えていなかった人間の上に 突然 恋愛問題が降ってきたんだ。瞬が動揺するのも当然のことだろう」 「全然 免疫ないんだもんなー。そりゃ、挙動不審にもなるか」 「あの……星矢……紫龍……」 二人は いったい何を言っているのか。 氷河が“瞬”に好意を持っていることを前提にしているような その会話は、瞬には意想外のことだった。 氷河が気分を害しているのではないかと、それが気にかかって、瞬は、ラウンジのセンターテーブルから少し離れたところにある肘掛け椅子に腰掛けている氷河の方を 恐る恐る 窺い見たのである。 氷河は、見るからに不機嫌な様子で、彼の仲間たちを睨みつけていた。 星矢たちの それは、やはり氷河にとっては、不愉快で見当違いな憶測だったらしい。 氷河の冷ややかな眼差しを認め、瞬は 半分安堵し、半分 落胆した。 安堵したのは、氷河が自分に特別の好意を抱いていないのなら、突然 自分に植えつけられた あの記憶が偽りの記憶である可能性が大きくなるから。 落胆したのは――瞬が落胆した理由は、奇妙なことだが、瞬を安堵させた理由と 全く同じだった。 すなわち、氷河が自分に特別の好意を抱いていないのなら、突然 自分に植えつけられた あの記憶が偽りの記憶である可能性が大きくなるから。 だが、だとしたら――突然 アンドロメダ座の聖闘士に植えつけられた あの記憶が偽りのもので、未来に起こることでも何でもないのだとしたら、いったい誰が何のために、そんな偽りの記憶をアンドロメダ座の聖闘士の中に植えつけたのか。 誰になら、そんなことができるか。 そんなことをして、益を受けるのは、いかなる存在なのか。 アンドロメダ座の聖闘士に 仲間に対する恐怖心を植えつけて その心を乱し、戦えなくすることが目的なのか。 それとも、ハーデスのように、いずれかの邪神がまたアンドロメダ座の聖闘士の身体を利用しようとしているのか。 ともあれ、あの記憶が偽りの記憶であるなら、未来の自分と未来の氷河は、地上の平和を望み 人類の幸福を願うことを忘れ、己れの快楽に耽溺するようなことはしない――ということになる。 そう信じられることが、その可能性が大きくなったことが、瞬の心を少し軽くした。 新たな敵の出現、再び 始まるのかもしれない苛酷な戦い。 だが、そんなことは、仲間を信じて戦うことができるのなら、必ず 乗り越え 打ち勝つことのできる脅威だったのである。瞬にとっては。 氷河にとっても そうなのかどうかを、瞬は考えていなかった。 氷河が、地上の平和や人類の幸福など、(今は)微塵も考えていないことに、瞬が気付いたのは、ありもしない氷河の告白話に盛り上がっていた星矢が、 「で、おまえは氷河に 何て答えたんだよ、瞬?」 と、仲間に尋ねてきた時。 星矢の無邪気な問い掛けに、瞬の代わりに氷河が、 「俺は瞬に何も言っていない」 と、全く抑揚のない声で答えた時だった。 「へ? でも、じゃあ、いったい誰だよ。瞬が こんなふうに浮かれたり 取り乱したりする相手が、おまえの他にいるのかよ」 「俺が知るか」 “クール”を人生の指針としている氷河は、“喜怒哀楽”の喜と哀と楽の感情は 極力 表に出さないように努めているのだが、怒りの感情は 無理に隠す必要がないと考えている節があった。 その根本にあるのは、『邪悪に対する怒りは、ひた隠すより 表出した方がいい』という考えらしいのだが、ともかく氷河は、怒りの感情を隠すことを滅多にしない男だった。 その氷河が、異様なまでに冷ややかに怒っている。 その冷たい感触に、瞬の心は凍りついた。一瞬間だけ。 氷河は、してもいない告白をしたと決めつけられ、氷河以外で ただ一人『そんなことはなかった』と証言できるアンドロメダ座の聖闘士は その作業を怠り、まだ出現してもいない邪神に気を取られている。 これでは、氷河が腹を立てるのも無理からぬこと。 瞬は慌てて、自分が為すべき仕事に取りかかったのである。 「ち……違うよ、星矢、紫龍。誤解だよ。氷河じゃなくて、多分、どこかの邪神が――」 「どこかの邪神? どこかの邪神って、どこの邪神だよ」 「それは……」 それが わかったら、苦労はない。 邪神の居所がわかっていたら、瞬は 今すぐに そこに出向いていき、氷河の清らかな友情を冒涜した人類の敵を厳しく問い詰め、場合によっては戦って打ち倒すこともしていた。 居所どころか、正体すら不明だから、瞬は邪神が繰り出す あり得ない記憶に振りまわされ続けていたのだ。 「そ……そこまでは わからないんだけど、その邪神は、記憶を操る力か、悪夢を見せる力を持っているらしくて――」 「悪夢って、どんな悪夢だよ」 「それは その……」 まさか、ここで、仲間たちのいるところで。本当のことを言うわけにはいかない。 かといって、仲間たちに嘘をつくこともできず――瞬は、かなり苦しい状況説明をしなければならなくなったのである。 「あ……あの……氷河が、僕の知ってる氷河じゃなくなって、僕に挑んでくるの。その氷河は、大人の氷河で――今の氷河より 10歳か20歳か、とにかく大人になった氷河で、その氷河と一緒にいる僕も やっぱり同じだけ 大人になってるんだ。そして、未来の僕と未来の氷河の関係は、今と違ってしまっているみたいで……。もちろん、僕たちは いつまでも 地上の平和を守って戦う仲間同士だよ。僕たちが そんなことになるはずないってことは わかってる。だけど、まるで 不吉な未来を予告されてるようで、僕……」 「俺が、おまえの敵になるというのか……!」 氷河が、あり得ないことを言い出した仲間を非難するように 声を荒げ、 「あ、そりゃ ないわ。それだけは絶対にない」 星矢は、ユニークで楽しいジョークを聞かされたという顔。 「しかし、氷河には前科がある」 紫龍は、アスガルドでのドルバル教主と 彼の神闘士ミッドガルドとの戦いの記憶が甦ってしまったらしく、思い切り嫌そうな渋面を作った。 星矢のみならず、当の氷河までが、紫龍の言うキグナス氷河の前科を思い出すのに少々 時間を要したのは、ご愛嬌というものだろう(ご愛嬌で済ませていいことなのかどうかは さておいて)。 瞬の仲間たちの反応は三者三様だったが、しかし、結論だけは同じだった。 「俺が おまえの敵になるなど、そんなことは天地が引っくり返っても あり得ん!」 「氷河がアテナの聖闘士の敵になるように、どこぞの邪神に洗脳されてもさ、氷河は そんな邪神への忠誠より、自分の好みを優先させるに決まってる。氷河が瞬の敵になるなんて、んなことは絶対に ないない」 「俺は氷河の好みの範疇外だから、この馬鹿は手加減なしで 俺を倒しにきたわけか。嬉しくて、涙が出るな。こっちは、まさか仲間を本当に倒すわけにもいかず、散々 苦労させられたというのに」 「瞬みたいな顔してりゃ、手加減してもらえたかもしれないのに、残念だったな」 「いや。氷河の好みの範疇外でよかったぞ。ともあれ、瞬が見せられた悪夢というのは、120パーセント あり得ない未来だな。おそらく、夢の神モルペウス、記憶の神ムネモシュネー、予言の神アポロンあたりの画策だろう。氷河が瞬の敵にまわるなどということは、夜空の すべての星が ゴマ団子になっても あり得ないことだ」 「氷河……星矢……紫龍……」 瞬は 決して、仲間たちに嘘をついたつもりはなかった。 大人になった氷河と自分が 今の二人とは違う関係を築いている光景を 何者かに見せられ、そのせいで心身が――小宇宙までが――混乱している。 それは、決して 嘘ではない。 決して 嘘ではない その光景を、瞬の仲間たちは全員一致で、『絶対に あり得ないことだ』と保証してくれた。 そして、瞬の仲間たちは、瞬にとって、命をかけた戦いを共に戦ってきた大切な存在。 その仲間たちの言葉を疑うことは、瞬には、たとえ それで命を失うことになったとしても できることではなかった。 アンドロメダ座の聖闘士の中に、あり得ない未来の記憶を吹き込んだ邪神が、夢の神モルペウスなのか、記憶の神ムネモシュネーなのか、予言の神アポロンなのかは わからないが、そんな邪神の企みに屈してなるものかと、瞬は思ったのである。 アスガルドのドルバル教主の洗脳も、冥界の王ハーデスの憑依も、アテナの聖闘士たちは 払いのけてきた。 たとえ一時的に その力の支配を受けることがあっても、アテナと 信頼できる仲間たちが、必ず その邪まな力を打ち破り、邪悪な力に屈しかけた仲間を アテナの聖闘士が歩むべき正しい道に引き戻してくれた。 仲間を信じ、アテナを信じ、彼等を信じる自分自身を信じて毅然としていれば、邪悪な力は 必ず撃退できる。 アテナの聖闘士が そんな力に屈することは決してない。 必ず 仲間たちが助けてくれる。 どんな疑いの心も抱かずに信じることのできる仲間がいることは、この地上における最も素晴らしい幸運であり、どんな疑いの心も抱かずに 仲間たちを信じることのできる自分は、地上で最も幸福な人間。 この地上世界に存在する最高の幸運と幸福が、自分の手の中にある。 ならば、何を恐れることがあるだろう。 そう、瞬は思ったのである。 あの 決して あり得ない記憶をアンドロメダ座の聖闘士に植えつけた邪神が何者なのかは わからない。 だが、アンドロメダ座の聖闘士は 決して そんな邪神に負けるわけにはいかない――負けることはできない。 固い決意を胸に、瞬は、誰よりも何よりも大切な仲間たちを見詰めた。 どんな邪神も、もう恐くない。 何も恐れることはない。 一瞬の逡巡もなく 命を預けることのできる仲間たちがいる限り。 「ごめんね、氷河、星矢、紫龍。心配かけて。僕、もう大丈夫だよ。みんながいてくれるから」 ある日 突然 降ってきた あの記憶が、瞬の中から消えていく。 「僕は もう大丈夫。ありがとう、みんな」 瞬は、迷いの消えた晴れ晴れとした笑顔で、仲間たちに そう告げた。 |