『氷河は 気付いていると思うぞ』
紫龍の推察が的を射たものであるなら――母を騙った仲間の罪に 氷河が気付いているのなら――彼に謝らなければならない。
本当は、氷河が気付いていなくても、もっと早くに、自分は氷河に真実を打ち明け、彼に謝罪すべきだったのだ。
今になって、瞬は そう思っていた。
これまで 瞬が そうすることができずにいたのは、氷河に『好きだ』と言ってもらえたから。
聖衣を手に入れて 日本に帰国し、氷河と再会してから さほどの時を置かないうちに、氷河に『好きだ』と言ってもらえたからだった。
本当のことを氷河に知らせて、彼に嫌われたくなかったから、瞬は氷河に真実を伝える勇気を持てなかった――失ってしまったのだ。

だが、もう、そんな卑劣を続けているわけにはいかない。
紫龍が察し、星矢が知り、氷河も気付いているかもしれないというのなら、瞬にできることは、真実を氷河に告げ、彼に謝罪することだけだった。
「氷河。氷河って、誰かから手紙をもらったことある?」
それでも、真実を告白するには、尋常でない勇気が要る。
瞬が、その夜、まるで氷河の心を探るように 彼に そんなことを尋ねたのは、やはり瞬が勇気を持てずにいたから――だったのかもしれない。
真実を告げて謝罪しなければならないと思う気持ちより、氷河に嫌われたくないという気持ちの方が 強く大きかったから――だったのかもしれなかった。

「ああ」
現状では、城戸邸に起居する青銅聖闘士たちが 外部からの手紙を受け取ることは ほとんどない。
城戸邸に配達される郵便物は、それが家人宛てのものであっても、使用人宛てのものであっても、いったん まとめて受領され、その後 仕分けされて各人に配布される。
それが個人宛ての郵便物であっても、法律上の事務手続き等が必要なものは 沙織が差配してくれるし、アテナの聖闘士たちは極力 個人情報を外部に洩らさないようにしているので ダイレクトメールの類も届かない。
各方面との連絡は、他のツールを用いて行われる。
現在でも そうなのだから、幼い頃は なおさら。
実際 瞬は、この城戸邸で自分宛ての手紙を受け取ったことは 一度もなかった。
氷河も それは 瞬と同じはず。
だが、氷河は、手紙を受け取ったことがあると言う。

「ど……どんな?」
問い返す瞬の声は、少し かすれ、上擦っていた。
氷河が そんな瞬を見詰め、しばし 何事かを考え込む素振りを見せる。
もし 彼が幼かった頃、彼の仲間が 彼に何をしたのかに気付いているのなら、彼は 自分が気付いていることを瞬に知らせるべきか否かを迷っているのだろう。
気付いていることを瞬に知らせれば、氷河は瞬を責めなければならなくなる。
それをしたくないから、氷河は仲間に答えることを逡巡しているのだ。
そう、瞬は思った。
長い逡巡の後、氷河がやっと重い口を開く。

「……天国のマーマからの手紙だ」
それを今、“瞬”に告げるということは、やはり 氷河は気付いていたのだ。
あの手紙を書いたのが誰だったのかということに。
瞬は、いたたまれない気持ちになった。
「氷河……」
氷河の声は静かで穏やかで、決して、彼の母を騙った軽率な仲間を責める響きを帯びてはいなかったのだが。
実際、氷河は 瞬を責める気はないようだった。

「マーマは死んだ。死んだ人から手紙が来るはずがないことはわかっていた。だが、信じていたんだ。マーマなら こう言う、マーマなら こう書く。俺の許に いつのまにか届いている不思議な手紙は、どんな 疑いもなく、そう信じてしまえる優しい手紙だったから」
「氷河……僕は――」
「マーマが俺を見ていてくれる。俺は そう信じていた。信じて――あの手紙に、俺が どれほど励まされたか」
だが、それは偽りの手紙だったのだ。
偽物の手紙を偽物と知らず、偽のマーマに 氷河は騙され、励まされるべきでない偽のマーマに励まされてしまった。
氷河にとって、それは、どれほどの屈辱だったろう。
氷河にとって、それは、どれほど彼の大切な人を侮辱する行為だったことか。

「おまえだったんだな」
「氷河……僕は、そんな……」
氷河の大切な人を騙る、そんな重大な罪を、全く罪悪感なく犯してしまった幼い頃の自分が、瞬は悲しかった。
罪悪感どころか。
あの時“瞬”は、これで氷河が元気になってくれる、これで氷河の笑顔を見ることができると、期待と喜びで胸を弾ませてさえいたのだ。

「天国のマーマからの手紙を、俺は今でも持っているんだ。子供のものとは思えない綺麗な字で、優しい字で、だが、鉛筆書きの――」
「それは……」
あの頃、城戸邸にいた子供たちは、筆記具は それしか与えられていなかった。
油性水性にかかわらず、容易に消すことのできない筆記具は、すべて没収されてしまっていたのだ。
星矢が トレーニングジムのサンドバッグにサインペンで辰巳の似顔絵を描いて、辰巳を激怒させて以来。

「マーマは日本語は、会話はできたが、読み書きは ほとんどできなかったんだ。天国に行けば、書けるようになるのだと思っていた時期もあったが――」
「日本語の読み書きができなかった……?」
そんなことを確かめもせずに。
やはり 自分のしたことは、浅はかで心ない軽挙だったらしい。
どうして 自分は これまで、氷河は気付いていないと思うことができていたのか。
今となっては、瞬は それが不思議でならなかった。

「もうずっと前に気付いてた。俺は、あの手紙を、シベリアに行ってからも、つらいことに出会ったり、挫けそうになるたび、読み返していたんだ。それで気付いた。マーマが俺への手紙で、一輝のことを『一輝兄さん』と書くはずがない」
「あ……」
本当に、自分は どうして、氷河は気付いていないと思い込んでいられたのか。
瞬は、唇を噛みしめた。
「気付いていたのに、気付いていない振りをしてたの? どうして?」
それは、氷河が仲間を責めたくなかったからに決まっていた。
それが わかっているのに――氷河が気付いていることを彼に知らされ、責められていた方が ずっとよかったと思ってしまう自分の我儘が、瞬は嫌だった。

「俺は、おまえに再会したら、ちゃんと『ありがとう』と言うつもりだったんだ。だが、おまえが あんまり綺麗で可愛くなって帰ってきたから、それどころじゃなくなった」
そう言って、氷河が 僅かに おどけたように肩をすくめ、薄い苦笑を瞬に向けてくる。
「氷河……」
いったい どこまでが真実で、どこからが 優しい嘘なのか。
どこまでが 優しい嘘で、どこからが真実なのか。
氷河が 軽率な仲間を責めてくれないので、瞬は 軽い混乱に陥りかけていた。

「ご……ごめんなさい」
「なぜ謝るんだ」
「僕は氷河を騙していた。あの手紙がマーマからのものでないと気付いた時、氷河は がっかりしたでしょう?」
「そんなことはない。嬉しかった。まあ、あれが おまえ以外の誰かからの手紙だったなら、ふざけるな! と腹を立てていただろうが。……嬉しかったぞ、俺は。多分、本当に天国のマーマから手紙が届くより」

浅はかだった仲間を責めもせず、笑って そう告げる氷河の青い瞳。
星矢は いつも、『おまえは、氷河を優しい男だと誤解しすぎている』と言うが、そんなことはないと思う。
氷河は優しいのだ。
本当に優しい。
最後の日――幼かった頃、あの別れの日。
この 青い瞳に もう一度 会いたいと、どれほど願ったか。
生きて 再び この青い瞳に出会えた時、どれほど嬉しかったか。

「あの手紙を書いたのが誰だったのかに気付いた時、俺は、マーマ以外にも俺を愛してくれる人がいるのかもしれないと思えるようになった。俺は おまえに希望をもらったんだ。おまえと再会した時、おまえ自身が俺の希望なのだと気付いた」
『僕にとっても そうだったのだ』と瞬が告げる前に、瞬の身体は 氷河の胸と腕に抱きしめられていた。
だから、瞬は、そう告げる代わりに、他のすべての言葉の代わりに、氷河の胸の中で、
「ありがとう」
とだけ、短く 囁いたのである。
同じ言葉が、氷河からも返ってきた。






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