「お願いです。人間を滅ぼそうなんて、そんなことはやめてください。考え直して。僕、もう、仲間たちのところに帰りたいなんて言いませんから。きっと、ずっと、あなたの気に入るようにしますから……!」
次にハーデスがエリシオンにやってきた時、瞬はハーデスに懇願したのです。
ですが、ハーデスは、
「余は、偽りの従順などいらぬ」
と冷たく言い放ち、瞬の懇願に耳を貸そうともしませんでした。

ハーデスはもう その決意を覆すつもりはないようでした。
自分のせいで、仲間たちが――すべての人間が――その命を奪われることになるかもしれない――。
瞬は――瞬には、そんな事態は絶対に受け入れることができませんでした。
ですから、瞬は、強大な力を持つ神であるハーデスに、エリシオンに来て初めて、正面から刃向かっていったのです。
「なら、僕は、たった今から あなたの敵になります。あなたに抵抗します。僕は人を傷付けるのが嫌いだ。戦いも嫌いだ。でも、自分だけ平和な世界で安穏と暮らしていたいとは思わない。あなたとでも、戦う。僕を僕の世界に帰して!」

ハーデスに逆らい、明確に彼の敵となる意思表示をすれば、“お気に入り”でなくなった人間を、ハーデスはエリシオンから追放してくれる。
そう、瞬は思っていました。
けれど、そんな瞬に――ハーデスに宣戦布告した瞬に――ハーデスは思いがけないことを言ってきたのです。
「それは無理だ。そなたが幼い頃に、余が そなたに与えたペンダント。余は、あのペンダントにって、そなたをここに連れてきた。あのペンダントに依った宣言は、運命の女神の承認を得て 神との契約になった。決して覆されない運命になったのだ。神である余にも、その運命は変えられぬ」
と。

「そ……それは どういうこと……」
それは いったいどういうことなのでしょう。
瞬は、自分の胸にある金のペンダントを見やり、ハーデスに問い返しました。
「そなたは、永遠に余のものなのだ。そのペンダントに刻まれている通りに」
『ペンダントに刻まれている通り』
瞬は、それを、母の形見だと、兄に聞かされていました。
そのペンダントには、YOURS EVER ――永遠にあなたのもの――と刻まれており、ですから 瞬は それを、瞬自身は顔を見たこともない父が 母に贈ったものなのだろうと思っていました。

けれど、そうではなかったのでしょうか。
ハーデスは、確かに、『そなたが幼い頃に、余が そなたに与えた』と言いました。
とはいえ、たとえ それがハーデスに与えられたペンダントだったとしても、ペンダントはペンダント。
ペンダントに どんな言葉が刻まれていたとしても、それが神にも変えられない運命になるなど あり得ないことのはずです。
あり得ないことのはずなのに。

「このエリシオンに来る時、余と共にいた三人の老女を憶えているか」
瞬がハーデスに『争いのない世界を見せてやろう』と言われたのは戦場でした。
と言っても、そこは、アテナの聖闘士と神の戦いが行われた場所ではなく、人間と人間が 武器を持って戦った場所。
折れた剣や槍、割れた盾や 戦闘用馬車の残骸、そして もちろん人間の亡骸が石ころのように転がっている場所でした。
なぜ こんなことが起きるのか――なぜ 人は こんな悲惨を自らの手で招くのかと、悲嘆に暮れていた瞬の前に、ハーデスは どこからともなく現われ、『争いのない世界を見たくはないか』と、瞬に尋ねてきたのです。

「三人の老女……?」
そういえば、あの時、まるで死のように不吉な影をたたえた老女たちが ハーデスの背後に控えていました。
「あれは、あなたの従者たちだったのではなかったの?」
瞬は、さして不思議にも思わず、そうなのだと信じ込んでいました。
冥府の王が 死を思わせる従者を従えているなんて、特段 奇異なことには思われませんでしたから。
けれど、事実は そうではなかったようでした。

「あれらは神――運命の女神たちだ。余と そなたの契約の証人とするために、余が わざわざ あの場に呼び寄せたのだ。余は、そなたが確実に永遠に余のものになるようにしたかったのでな」
「運命の女神たち……?」
あの時、あの老女たちは何もせず、何も言わず、ただ瞬とハーデスのやりとりを見ていただけでした。
彼女等は 神らしいことは何一つ――どんな力を示すこともしなかったのに。

「余は、あの時、運命の女神たちの前で、そのペンダントに 次元を超える神の力を与えることを宣言した。そして、そなたは、『このペンダントにって、エリシオンに行く』と女神たちの前で言った」
「そう言えば、争いのない世界を見せてやると、あなたが言ったから……」
「あれが、そなたが永遠に余のものになるという契約だったのだ。永遠に あなたのもの――余のもの。運命の女神たちの前で、そなたは余に誓った」
「僕は、そんなつもりでは――」
「そのペンダントが そなたの胸にある限り、そなたは永遠に余のものなのだ」
「そんな……」

『そのペンダントが そなたの胸にある限り』
ハーデスが そう言うので、瞬は そのペンダントを外そうとしたのです。
ですが、そのペンダントを外すことは、瞬にはできませんでした。
首から外そうとすると、ペンダントは大地のように重くなり、どうしても首より上に持ち上げることができません。
鎖を引き千切ろうとすると、それは空気のように捉えどころがなくなり、鎖に触れている実感をさえ、瞬に与えてくれませんでした。

このペンダントが自分の胸にある限り、永遠に仲間たちに会えない――。
ハーデスのその言葉に、瞬は絶望的な気持ちになったのです。
このペンダントが自分の胸にある限り、仲間たちのいる世界に帰ることができないのなら、いっそ自分で自分の命を絶ってしまおうかとまで、瞬は思いました。
エリシオンではなく 冥界で待っていれば、いつかは仲間たちと再会できるかもしれないと思ったから。
すぐに、そんなことはできないと、瞬は思い直しましたけれど。
ハーデスは、地上世界にいる すべての人間を滅ぼそうとしているのです。
それを阻止することが、必ず果たさなければならない瞬の務めでした。

でも、どうやって?
その方法を思いつくことができず、瞬が 途方に暮れた時でした。
その人が エリシオンに現われたのは。






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