「そういうことだったの」
その人は、強大な力を持つ冥府の王を、悪知恵の働く いたずら坊主を見るような目で見やり、その小狡い悪知恵に呆れたような声で、ハーデスを責めてくれました。
「それを契約と言えますか。それでは、あなたは瞬を騙して この国に連れてきたたようなもの。そんな契約は無効です」

その人――いいえ、その神は、瞬が忠誠を誓う ただ一人の神。
人間である瞬ですら失望を覚えることのある人間というものを、どこまでも信じ 愛してくれる、ただ一人のひと。
それは女神アテナ――瞬の兄と星矢、紫龍、そして氷河を従えた、知恵と戦いの女神アテナでした。
アテナは、神の力で次元を超え、瞬の会いたい人たちを伴って、ハーデスの国まで来てくれたのです。
彼女の心弱い聖闘士のために。

アテナを守っている瞬の仲間たちは、瞬が最後に見た時より 少し大人びているように見えましたが、驚くほど変わっているわけでもありませんでした。
彼等の変化は、時の力によって 彼等が成長したせいではなく、ある日 突然、忽然と消えてしまった仲間の身を案じる心労のゆえだったのかもしれません。
10年もの時が経ったような気がしていたのに、実際は、瞬が この国に来てから 半年ほどの時も経っていなかったのだと、瞬は知ることになりました。

「何が『永遠にあなたのもの』だ! 何が 神にも変えることのできない運命だ! もし それが事実だったとしても、“あなた”なんて、そんなものは、誰とでも解釈できる人称代名詞だ!」
最初にハーデスに食ってかかっていったのは氷河でした。
ハーデスには、それが、非力な人間の無鉄砲に見えたのでしょうか。
彼は、神に刃向っていく氷河を見やり、鼻で笑いました。
「瞬は、運命の女神たちを証人として、余の前で、余に向かって言ったのだ。このペンダントに依ってエリシオンに行くと。そのペンダントの『あなた』は余以外の誰かでは あり得ない。あの誓いの場には、余の他には運命の女神たちしかいなかったのだからな」

「だが、瞬は、貴様に言わされた言葉の意味を正しく理解していなかったんだろう !? 貴様が瞬に知らせなかったんだ!」
「それがどうしたというのだ。運命の女神たちの前で、瞬は その言葉を口にした。それは 決して覆すことのできぬ神との契約だ。運命の女神が定めた運命が覆るようなことがあったら、人間界のみなならず、神々の住まう天上界、余の支配する冥界までもが、世界のことわりを逸脱し、崩壊する。そのペンダントが瞬の胸にある限り、瞬は余のものなのだ」
勝ち誇ったように告げるハーデス。
瞬は再度、ペンダントを外すことを試みたのですが、やはり ペンダントを外すことはできませんでした。

「それは、首を切りでもしなければ外れん」
瞬の抵抗の様を、ハーデスは冷ややかに見おろしています。
瞬は涙声でハーデスに訴えました。
「僕をみんなの許に帰して! みんなが命がけで戦っているのに、僕だけが こんなところで無為に生きていることなんてできない……!」
「そなたは、戦いに倦み、戦いに疲れていたのではなかったのか? 余は、救いを求める そなたの声に応え、慈悲の心から そなたをここに――」

「貴様は それ以前から瞬に目をつけていたんだろう。貴様が瞬に そのペンダントを押しつけたのは、瞬がまだ赤ん坊の頃だったそうじゃないか。この助平ジジイ!」
ハーデスの やり方に よほど腹が立っているのか、すぐ そこにアテナがいるというのに、氷河は口の悪さ全開。
「助平ジジイだとっ」
そんな下品な罵倒を投げつけられるは、これが初めてのことだったのでしょう。
ハーデスは その端正な顔を ひりひりと引きつらせました。

「我が最愛の弟の 平和を願う清らかな思いを、己れの特殊な趣味を満たすために利用し、騙すとは許し難い。運命が許しても、この俺が許さん!」
「赤ん坊の頃から 瞬に唾つけてたってのは、さすがに ちょっとやばいよな」
「うむ。瞬が赤ん坊の頃から 可愛かったのだろうことは 容易に想像がつくが、それはペドフィリアという病気だ」
アテナがついているから強気なのかもしれませんが、瞬の仲間たちは 冥府の王に対して 全く容赦がありません。
ハーデスを怒らせることは アテナにも人間にも よくない結果をもたらすことになるだけなのではないかと案じ、瞬は慌てて、仲間たちのハーデス糾弾の軌道修正にとりかかったのです。

「あ……あの、病気かどうかはともかく、僕は、どんなに つらい思いをすることになっても、どんなに苦しくても、悲しくても、地上世界に生きる人たちの幸福のため、不幸な人をなくすために戦うことを続けたいんです。ですから、どうか――」
瞬の気遣いを酌んだのか、瞬の仲間たちの下世話な糾弾を聞いていたくなかったのか、それとも 己れの性的嗜好に触れられたくなかったのか、ハーデスは瞬の軌道修正に乗ってきました。
顔の引きつりを元に戻し、彼は 瞬の望みを、
「叶わぬ願いだ」
と、短く冷たく切り捨ててくれました。
「非力な人間の身で、地上を汚すことに夢中になっている人間たちを すべて救えると、そなたは本気で思っているのか」
「す……すべての人を救うのは無理でも、たった一人の人だけでも救うことができたら……。僕、これ以上 ここにいたら、心が死んでしまうの! 氷河っ」

それはもう ハーデスへの懇願ではなく、仲間たちへの悲痛な訴えでした。
氷河は もちろん、瞬のために――瞬の心を守るために、神に立ち向かってくれたのです。
今度は、少し まともに。
「俺たちに瞬を返せ。瞬はこんなところにいたくないと言っている。瞬を大切に思うなら、瞬の意思を尊重しろ。そうすれば、瞬は おまえに感謝するだろう」
ハーデスの答えは、これまでと全く同じでしたけれど。
「くどい! 瞬は余のものだ。神との契約は絶対なのだ。虫けら同然の人間風情が、神である余のすることに口出しをするな!」

“人間風情”が“虫けら同然”であるなら、虫けら同然の瞬に執着するハーデスは何なのでしょう。
ハーデスは自分の言動の矛盾に気付いていないのでしょうか。
瞬は そう疑いました。
氷河が その矛盾に言及しなかったのは、そうするために、たとえ言葉の上だけのことでも、たとえ仮定文でも、瞬を“虫けら同然”と言うことが不快だったから――のようでした。
氷河自身は、冥府の王に虫けら同然と断じられても、今度は立腹した様子を見せませんでした。
むしろハーデスを哀れむように、彼は、
「仕方がないな。貴様の面目を立ててやろうと思ったのに」
と、独り言のように低い声で呟きました。
氷河は ここでハーデスと戦うつもりなのかと、瞬は狼狽したのです。

ここはハーデスの作った世界。ハーデスの領域です。
いくらアテナがついていても、この場でハーデスと戦うことを始めたら、氷河は無傷ではいられないでしょう。
最悪の場合、命を落とすことだって ありえます。
瞬は、氷河を思いとどまらせようとしました。
けれど、そんな瞬の案に相違して、氷河はハーデスに拳を放とうとはしなかったのです。

拳を放つ代わりに。
「そのペンダントに依って、瞬は この国に来た。そのペンダントに依って、瞬の運命は定まったのだ」
そう繰り返し告げるハーデスに、氷河は、ほとんど抑揚のない淡々とした声で、
「ペンダントに刻まれている文字が 瞬の運命なんだな?」
と反問しました。
氷河の反問に、ハーデスが勝ち誇ったように顎をしゃくり頷きます。
「そうだ。瞬は永遠に余のものだ」
「……」

そんなハーデスを見やる氷河の瞳は、まるで冥府の王を気の毒がっているよう。
短い沈黙。
そして 氷河は、彼にしては ひどく落ち着いた声で、まるで思い出語りをするように、あることを語り始めたのです。






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