氷河の今日の遠出の目的は首尾よく果たされたらしい。 待ち合わせは 横浜港。某ディナークルーズの船上。 そこには紫龍も呼ばれていて、彼は、 「おまえの奢りだというから来てやったが、前日 突然『7時に山下公園に来い』はないだろう。こっちにも都合というものがあるんだ。せめて1週間前に打診してくるのが礼儀というものだ」 と、氷河の乱暴なご招待に 少々 機嫌を斜めにしていた。 紫龍の“ご機嫌斜め”に、氷河の ご機嫌も斜めだったが。 「なぜ、俺が おまえを呼んだと思う。ナターシャの相手をしてもらうためだ。昨日今日の付き合いじゃないんだから、それくらい察したらどうだ……!」 察しているからこそ、氷河の招待を素直に喜べずにいる紫龍が、氷河の勝手な言い草に わざとらしく嘆息する。 「俺がいない方がいいのでは……三人一緒でいいではないか」 純白の大型クルーザーのデッキ前のサロンの隅で 氷河が声をひそめているのは、もちろん、デッキで宝石のような夜景に歓声をあげているナターシャと瞬に 紫龍とのやり取りを聞かれないためである。 氷河の そんな事情を酌んで 自らも声をひそめてくれている紫龍に感謝する様子も見せず、氷河は あくまでも自分の都合を主張し続けた。 「わからん奴だな。三人一緒だとできないことをしたいんだ!」 「三人一緒だとできないこと?」 その言葉を復唱してくれる紫龍に、氷河は偉そうに頷いた。 「ナターシャは可愛い。素直で聞き分けもいいし、瞬にも懐いている。だが、ナターシャがいると瞬と二人になれる時間が取りにくいんだ」 「つまり、俺はキッズシッターか。黄金聖闘士に子守りをしろというわけだ」 さすがの紫龍が嫌味口調になったが、 「名誉な仕事だろう」 氷河は、どこ吹く風。 「あとで、借りは返せよ」 とか何とか言いつつ、結局 その名誉な仕事を引き受ける紫龍は、どこまでも律儀実直な男だった。 山下公園を出たクルーザーは、みなとみらい21地区、赤レンガ倉庫を経て、横浜ベイブリッジへと向かっている。 ナターシャを紫龍に預け、氷河は瞬と船のデッキに立ち、夜の海と街を眺めていた。 ナターシャのパパへの義務とばかりに、瞬が今日の出来事の報告を続けているせいで、シチュエーションはロマンチックなのに、二人の間で交わされている会話は 一向に氷河の望む方向に進展する気配を見せていなかったが。 「何もかも うまくいく――とは」 「多分ね、僕がナターシャちゃんのパパの再婚相手だと思われたんだと思う。そのために、子供と親睦を深めようとしているところだと、あの ご婦人は勘違いしたんだよ」 「再婚も何も、俺は――」 老婦人の豊かすぎる想像力に目を剥き、『誤解を解くのも面倒だから、そのままにしてきちゃった』という瞬の言葉に呆れてから、氷河は、それも悪くはないと思い直したのである。 それは瞬にとって どうしても解かなければならない誤解ではなかったのだということに、氷河は気をよくしていた。 「とんでもない誤解だが、それはいいな。おまえ、俺たちと一緒に暮らさないか。そうすれば、ナターシャがいても、容易に二人の時間が作れるようになる」 言いながら、氷河が その腕を瞬の肩と背に まわしてくる。 「そんなわけには――氷河、人に見られるってば」 秋も終わろうとしている夜の海。 クルーザーの乗船客たちは、寒さを避けて サロンやダイニングルームから窓越しに夜景を楽しんでいる。 広いオープンデッキにいるのは 氷河と瞬だけだったが、だから 人がやってこないとは限らない。 久し振りに二人きりになれた恋人を抱きしめようとする氷河に、瞬は自制を求めたのである。 が、もともと それが目的だった氷河が そんな控えめな自粛要請を受け入れるはずもない。 「誰に見られても構わん。ナターシャに見られさえしなければ」 瞬の唇に 唇を重ね、瞬の抵抗が 抵抗とも呼べないものであることを確かめた上で、氷河は 瞬の身体を 更に強く自分の方に抱き寄せたのである。 そこに、 「パパ、何してるの?」 氷河が この場面を見られたくない ただ一人の人の声が降ってきた。 氷河と瞬の肩と腕が 同時に、そして 瞬時に強張る。 その声に驚いたのは、氷河だけではなく――瞬も、もう少しで 思い切り氷河の舌を噛んでしまうところだった。 |