自分には どんな責任もない理不尽な力で――それが暴力であっても、運命の力であっても――不幸になる子供を この地上からなくしたかった。 そんな不幸な子供のいない世界を実現できたなら。 そう思って、瞬は この島に来た。 泣くことしかできず、厄介な荷物でしかない自分を守り、庇い、あげく、その不甲斐ない弟の代わりに地獄の島に送られた兄。 その兄に、どれほど つらい修行にも耐え抜き、必ず生きて帰ると約束した。 その約束を守るためにも、自分はアテナの聖闘士にならなければならない。 聖闘士になれば、常人には持ち得ない力を手に入れることができる。 その力で、不幸な子供たちを救うこともできる。 あの強く優しかった兄に再会することもできる。 瞬には、どうあっても生き延びなければならない理由があった。 どうあっても聖闘士にならなければならない理由があった。 だというのに。 聖闘士になるということは、聖闘士が為さなければならない務めとは、敵を倒すことなのだと知った時、瞬は その理由の価値を見失ってしまったのである。 “地上の平和を守る”とは、地上の平和を乱す者を倒すこと。 “不幸な子供をなくす”とは、戦う術を持たない子供たちに 不幸をもたらす邪悪の徒を倒すこと。 平和も幸福も、その妨げになる“敵”を退けることでしか、手に入れることができない。 それがアテナの聖闘士の正義なのだと知らされた時、瞬は、人間の生きる世界、人間の営む社会というものに失望せずにはいられなかったのである。 戦いのない世界を手に入れるには、この地上世界から“敵”がいなくなるまで戦い続けなければならない。 生きて帰るという兄との約束を守るためには――その約束を守りたいだけなのに――この島で 共に聖闘士になるための修行を積んできた仲間たちを倒さなければならない。 そんな理不尽、そんな矛盾があるだろうか。 戦いの世界が欲しければ、戦い続けなければならない。 幸福になりたければ、その邪魔をする者たちを不幸にしなければならない。 それが人の世の理なのだと知った時、瞬は、つらい修行に耐える意義と意味を見失ってしまったのだった。 「どうしてですか、先生。僕は平和な世界が欲しいだけ。不幸な子供たちのいない世界が欲しいだけなんです。そのために 人を傷付けることなんかしたくない。力で邪悪を捻じ伏せるのが アテナの聖闘士なら、僕はアテナの聖闘士になんか――」 『なりたくない』と言ってしまうことは、瞬にはできなかった。 その言葉を口にしてしまえば、兄との約束を守ることができなくなる。 懐かしい仲間たちに再会することも叶わなくなるだろう。 瞬は、『アテナの聖闘士になんか なりたくない』と言ってしまうほどの覚悟も持てない自分が 情けなく、不様で、惨めな存在に思えた。 瞬の師であるアルビオレが、『アテナの聖闘士になんか なりたくない』と言ってしまえずにいる弟子を、不思議に温かい眼差しで見下ろし、見詰めている。 「それが現実だ。おまえは、その矛盾に満ちた苛酷な現実の中で、迷い、悩み、苦しみながら、自分の夢と理想を実現する術を探さなければならない。迷い、悩み、苦しむことだ。そのための時間は いくらでもある。おまえは若い。幼いと言っていいほど若い。諦めることは、迷い、悩み、苦しみ抜いてからでもできる」 「先生……」 迷い、悩み、苦しめという師の言葉に、瞬は もどかしさを覚えた。 迷い、悩み、苦しむことはできるのだ。 それは 人を傷付けることなくできる行為だったから。 瞬が嫌なのは――瞬が つらいのは――自分ではなく、自分以外の人を傷付け苦しめることだった。 その つらいことをせずに済む方法を師に教えてほしいと思っているのに、その方法を教示してくれるのが師というものだと思うのに――師は、それは自分で為せと言う。 瞬の不満を見透かしたように、アルビオレが彼の言葉を続ける。 「ただ、これだけは言っておく。諦めれば、おまえは何も成し遂げることができない。そして、大抵の人間は、自分の命が終わる最期の瞬間まで 迷い続ける存在なんだ。迷うのは、おまえだけではない。迷わない人間は危険ですらある」 「自分の命が終わる最期の瞬間まで 迷い続ける……? それは 僕だけじゃない?」 「そうだ」 「先生も?」 「もちろん、そうだ。そして、瞬。迷いが 人を強くすることもあるんだ」 「……」 瞬は、師の言葉に得心することができなかった。 迷いが人を強くすることなどあるだろうか。 迷いを抱えている人間は、一つの目的のために一心に努力することができない。 心が揺れている人間は――たとえ そうするだけの力があっても――目的を成し遂げることに躊躇を覚え、前に進むこともできないのではないか。 瞬には師の言葉の意味が わからなかった。 瞬に わかるのは、諦めれば 自分は この島で死ぬだろう――ということ。 諦めれば、自分は何も成し遂げられない非力な人間のまま、この島で死ぬだろうということ。 そして、だが、今 諦めれば――今 この島で死んでしまえば――自分は 何も成し遂げられない代わりに 人を傷付けることもせずに済む――ということだけだった。 |