「僕を この地上世界から消し去ってください」 瞬が 沙織に そう告げたのは、彼女が聖域に向かうことになっている日の前夜だった。 彼女が何のために聖域に向かうのか――聖域の真の敵を迎え撃つために、彼女は聖域に向かおうとしているのだということが、瞬にはわかっていた――漠然と感じ取れていた。 そして“その時”を これ以上 先延ばしにすることはできないのだということも、瞬にはわかっていた――わかりたくはないが わかってしまっていた。 自室のバルコニーに立ち 空の星たちを見詰めていたアテナが、ゆっくりと瞬の方を振り返る。 「僕が聖闘士になったのは、氷河を助けるため、僕の仲間たちを助けるためでした。アテナがアテナたり得る世界を実現するためだった。その目的は果たされました。これ以上 生きていると、僕は 沙織さん――アテナにも、みんなにも迷惑をかけることになる。僕は 必ず みんなの災厄になります」 どういう方法を用いるつもりでいるのかは わからないが、ハーデスは“瞬”を利用しようとしていた。 アテナに敵対する神が為そうとしていることが、アテナに、アテナの聖闘士たちに、この地上世界に、平和と幸福を もたらすことであるはずがない。 「ハーデスのこと?」 沙織が 困ったような微笑を浮かべ、瞬に問うてくる。 「沙織さん――アテナ……」 アテナは やはり知っていた――気付いていたらしい。 「そうなのではないかと思っていたわ。十二宮――双魚宮で、あなたの迷える心に触れた時にわかった。あなたの清らかな魂に触れた時、わかった」 「わかっていたなら……!」 わかっていたなら、なぜ あの時、アテナは あのままアンドロメダ座の聖闘士を捨て置いてくれなかったのか。 『神の力をもってしても、自ら 死を選んだ者の命を甦らせることはできない』と言えば、誰も アテナの言葉に疑いを挟むことはしなかっただろう。 アンドロメダ座の聖闘士が戦いを厭うていることは、周知の事実だったのだから。 だが、アテナは、気付いていながら あえて そうしなかったらしい。 「あなたが ハーデスに何を言われたのかは知らないけど――」 「僕がまだアンドロメダ島にいた時――アンドロメダ座の聖衣を手に入れる前、ハーデスは僕に カミュのフリージングコフィンに閉じ込められた氷河の姿を見せてくれました。そして、氷河を救えるのは僕の小宇宙だけだと教えてくれた。アテナがアテナたり得る世界を実現しないと、氷河だけでなく、みんなが命を落とすことになると 教えてくれた。だから 僕は、その事態を回避するために 聖闘士になったんです。その目的は果たされた。ハーデスは、僕が生きていないと彼が困ると言っていた。多分 僕は彼に利用されて、沙織さんや星矢たちを苦しめるんです。僕は そんなことはしたくない。そんなこと、僕には耐えられない。僕は最後まで みんなの仲間でいたい。みんなと同じ場所に立っていたい。だから――」 「だから、自分を この地上世界から消し去ってほしいと? 残念ながら、それはできないわ」 「沙織さん!」 叫んだ瞬自身でさえ 悲痛と感じるほど悲痛な叫び。 だが、そんなものに、アテナは心を動かされてはくれなかった。 「瞬。あなたは 私を誰だと思っているの。私は、この地上世界の平和を守るために戦う聖闘士たちの守護者。“アテナの聖闘士”のアテナなのよ。私は、あなたと あなたの仲間たちを守るために存在するの」 「でも……でも、だから……!」 アテナが 地上の平和を守るアテナの聖闘士たちのために在る者なら、アテナの聖闘士もまた、地上の平和を守るアテナのために在る者である。 そして、瞬は、最期までアテナの聖闘士でありたかった。 仲間たちの仲間でありたかったのだ。 戦いの女神は、だが、瞬の願いを、冷たく 優しく一蹴してくれた。 「ハーデスがあなたに見せた未来は、起こり得る一つの可能性にすぎないわ。ハーデス自身、自分の運命など知らないのだから」 「ハーデス自身も知らない? でも……」 アンドロメダ島でハーデスが瞬に見せた未来は、運命は、その通りになった。 アテナの聖闘士たちが 聖域で戦いが始まることなど夢想もしていなかった時、ハーデスは 氷の棺に閉じ込められた氷河の姿を 瞬に示してみせたのだ。 そしてまた、彼の言葉通り、十二宮の戦いで傷付き倒れたアテナの聖闘士たちは、アテナの力によって甦った。 そのハーデスが 未来を知らないことなど あるだろうか――? 戸惑う瞬に、アテナが頷く。 「もちろん、ハーデスも自分の運命など知るはずがないわ。何かを察していたとしても、それは、あなたや あなたの仲間たちによって変えられてしまうかもしれないものにすぎない。実際に、あなたは、あなたがハーデスに見せられた運命を変えてしまったではありませんか」 「それは……」 それは 確かにアテナの言う通りである。 ハーデス自身、瞬が アテナの聖闘士になることで 運命が変わることは承知していたようだった。 「ただ、これだけは言っておきます。諦めたら、人は――あなたは、何も成し遂げられない。何もできない。この先、あなたが救えるはずだった命、あなたに守られるはずだった人たちの命が、あなたが諦めることによって救われず、守られないかもしれない」 「この先、僕が……?」 「ええ。あなたは未来を変えたのよ。ハーデスの言うところの運命をね。あなたがいなかったら、一輝は生きようとしなかったでしょう。氷河も――氷の棺から復活していなかったら、私は彼を甦らせることはできなかったでしょう。自ら 死を受け入れた者を、私は救わない。そもそも、あなたがいなかったら、私はアテナとして聖域に降臨できず、紫龍や氷河の復活もなかった。星矢も 命を失っていた。地上の平和も守られなかった」 「それは……僕一人の力ではなく、みんなで――」 「そうね。あなたと あなたの仲間たちは未来を変えた。運命を変えた。いいえ、もともと運命なんて定まっていなかった。“今”は あなたと あなたの仲間たちが選び、掴み取った未来よ。そして、未来は これからも変えられます」 それは そうかもしれない。 だが、それが必ずしも アテナとアテナの聖闘士たちにとって 幸いな方向に変わるとは限らない。 アンドロメダ座の聖闘士が生きていることがハーデスを利するというのなら、仲間たちを苦しめることになる可能性を大きくするというのなら、瞬は やはり その可能性を排除したかった。 「ハーデスの思惑通りに、僕が生き続けることは……」 「大人しくて 控えめで 素直な いい子だと思っていたのに……。瞬、あなた、意外に頑固ね」 アテナが おどけたように肩をすくめる。 アテナに何と言われようと、瞬は自分の態度を改めるつもりはなかった。 事は、仲間たちの命に関わる重大事なのだ。 大人しくて 控えめで 素直な いい子でなど いられない。 唇を きつく引き結んだ瞬を見やり、アテナが真顔に戻る。 否、一層 厳しい顔になって、彼女は瞬に断言した。 「生きていれば、諦めなければ、必ず 平和な世界は実現できます」 「誰が、それを保証してくれるの……!」 仲間たちを傷付けたくないのだ。 命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間たち。 毅然として戦うことができず、迷ってばかりいるアンドロメダ座の聖闘士を許し、受け入れ、信じてくれてさえいる仲間たち。 “瞬”を幸福にしてくれた仲間たち。 彼等を傷付けたくない。苦しめたくない。 この地上世界に生きている すべての人間たちの誰よりも、彼等を守りたい。 その気持ちがアテナには わからないのだろうか。 それは、瞬がアテナに対して為した 初めての口答えだったかもしれない。 アテナは、アンドロメダ座の聖闘士の口答えごときには、動じる様子も見せなかったが。 アテナは実に堂々と、雄々しく、アンドロメダ座の聖闘士の口答えに応じてきた。 「保証など、誰にもできないわ。神にも――私にも、ハーデスにも。だって、運命は変わるものなんですもの。定まった運命なんかないの。それは――運命というものは、自分の命を懸命に生きて、生き抜いた人が、命の最期の瞬間に 自分の生きてきた道を振り返って、その時に初めて、これが自分の選びとってきた運命だったのだと知るものなのですもの。運命はね、未来にあるものではないのよ。未来にあるのは、漠として 何も定められていない永劫の時間だけ」 「……」 それでも。 『それでも』と思ってしまう自分は、“頑固な悪い子”なのだろうか。 泣きたい気持ちで『それでも』と思ってしまった瞬に、アテナは根負けしたような苦笑を浮かべた。 そして、嘆息混じりに 瞬に告げる。 「ハーデスの言うことは信じられて、私の言うことは信じられない? なら、あなたの仲間たちの言うことを信じなさい」 「え……」 アテナの言葉に驚いて 弾かれたように 瞬が後ろを振り返ると、そこには瞬の仲間たちがいた。 アテナの小宇宙とアンドロメダ座の聖闘士の小宇宙が 互いに争い合っていることに仰天して、彼等は ここに駆けつけてきたらしい。 驚き 目を見張っている仲間たちの姿を認め、瞬は 気後れに似た気持ちに囚われた。 彼等といると、瞬は なぜか、どうしても、“大人しくて 控えめで 素直な いい子”になってしまう――そういうものに させられてしまうのだ。 |