それでも、万が一ということがある。
氷河は いつもは素通りするマンションの管理人室に立ち寄り、常駐している管理人に わざわざ、
「留守中、客は来なかったか」
と確認を入れたのである。
愛想のいい管理人から、
「いいえ」
という愛想のない返事を受け取って、氷河は 更に がっかりすることになった。
なぜ そんな無益なことをしてしまったのだと自身を責めながら、自室のある階に向かう。
そして、氷河は そこで、客はなかったという管理人の言葉が嘘だったことを知ることになったのである。
客はいたのだ。
氷河の部屋のドアの前で、客は氷河の帰宅を ずっと待っていたようだった。
残念ながら、それは瞬ではなく、一匹の小さな白い猫だったが。

二重になっているオートロック、24時間有人管理のマンションとはいっても、セキュリティは完璧ではないらしい、
他の部屋の住人に ついて入り込んできたのだろうが、その猫は、そこ以外の部屋に用はないというかのように、氷河の部屋のドアの前に ちょこんと行儀よく座り、手持ち無沙汰なのか 時折 前足の毛繕いをしていた。
氷河がドアを開けようとすると 素早く脇によけ、だが、逃げてはいかない。
玄関に入った氷河がドアを閉じようとすると、
「にゃー」
と鳴いて、氷河を見上げてきた。

マンションに入り込んだはいいが、出るに出られなくなり、おそらく空腹なのだろう。
猫は 氷河の部屋に入りたがっているようだった。
「……」
平生の氷河なら、そんなものは無視した。
これだけ綺麗な猫なら、自分が構ってやらなくても、他の物好きが――もとい、猫好きが――喜んで世話を焼くだろう。
なにも、今 最高に不機嫌で苛立っている男に懐く必要はない。
そう思って――他の誰でもない、その猫のために そう思って――氷河は、改めてドアを閉じようとしたのである。
だが。

「どうせ、一輝のところに帰っているんだ」
省略された主語は、もちろん『瞬は』である。
主語のみならず、瞬に告げるべき すべての言葉を省略するような、ものぐさな瞬の兄。
そんな 怠惰な兄を、異様なまでに慕っている瞬。
『それでも、もしかしたら』という期待を抱き、その期待を打ち砕かれたばかりだった氷河は、今は一人でいたくない気分だったのだ。
気まぐれの代名詞にされることの多い猫なら、人間の気まぐれにも寛容だろう。
そう考えて、氷河は、自分の足元にいる猫に、
「入れ」
と告げた。

その言葉を待っていたかのように、みゃーと鳴いて、白猫が氷河の部屋に入り込む。
人懐こいのか、図々しいのか。
あるいは、人に甘え 甘やかされることに慣れているのか。
その いずれかなのだろうと、ちゃっかり人様の家に入り込むことに成功した猫を見て、氷河は思ったのである。

が、氷河の案に相違して、その猫は 妙に遠慮がちだった。
家の中に入り込むまでは 随分と積極的だったのに、入り込んでしまうと、そろそろと部屋の隅に行き、前足を折りたたんで腹這いに座ったきり――いわゆる香箱座りの態勢で――鳴き声ひとつあげず大人しくしている。
以前、養護施設にいた頃、仲間たちが拾ってきた猫たちは、よほど弱っていない限り、むやみやたらに施設内を走り回るか、すぐに次の行動に移れるよう緊張しているのがわかる座り方をするのが常だった。
餌が欲しいので愛想のよい振りはするが、人間というものを信じてはいない。
そういう態度を示す猫が ほとんどだったのである。
見知らぬ人間の家の中にいるというのに、最初から これほどリラックスしている猫に会うのは、氷河は これが初めてだった。

水で薄めたミルクを小皿に入れて出してやると、その猫は、ちゃんと、
「みゃあ(いただきます)」
を言って、ぺろぺろとミルクを飲み、飲み終わると、
「にゃあ(ごちそうさま)」
を言って、また部屋の隅で香箱座り。
鳴き声もあげず、室内を歩き回ることもしない。
一人でいるのが嫌で招き入れた猫なのだから、少しくらい騒いでくれてもいいのにと思ってしまうほど、その猫は大人しい猫だった。

「随分 行儀のいい――遠慮を知っている猫だな」
行儀がよく 大人しすぎて、かえって興味を引く。
野良猫にしては綺麗すぎ大人しすぎるが、飼い猫なら 絶対に外飼いしないタイプの猫である。
子猫ではなく、健康そうだが、とにかく小さい。
丸くなれば、容易に氷河の片手に乗りそうな猫だった。
「ところで、おまえ、メスか? オスか?」
それを確かめるべく、首を摘まんで持ち上げた途端、それまで借りてきた猫のように(?)大人しかった猫が 突然 暴れ出した。
「にゃんにゃんにゃんにゃんっ!」
その様子が、人の手に摘み上げられるのが嫌で 手足をばたつかせ 氷河の手から逃れようとしているというより、身体を よじって 氷河が確かめようとしている場所を隠そうとしているように見える。
彼(?)の意を酌んで、氷河はすぐに その猫を床に下ろした。

「これは失礼。遠慮だけでなく、恥じらいも知っているわけか」
大人しいが、なかなか面白い猫である。
ソファに座って、
「ここに来い」
と言うと、白猫は素直に 氷河の膝に飛び乗ってきた。
その身体は、温かいが軽い。
生きているのだから、温かいのは当たりまえ。
小さいのだから、軽いのも当たりまえ。
至って 当たりまえのことなのだが、氷河は その事実に驚き、感動した。

感動的なことに、しかし、人は慣れてしまうと、感動しなくなってしまうのだろうか。
たとえば、瞬の兄のように。
「一輝の馬鹿は、瞬みたいに文句のつけようのない弟がいて、何が不満なんだ」
「みゃあ?」
「俺なら、下にも置かずに可愛がるのに」
「にゃあ?」
「俺なら毎日、おまえは可愛いと言ってやって、おまえがいてくれて嬉しいと言い続けるのに」
「ふみゃあ……」
左前脚の付け根の少し後ろ。
心臓のある位置は、猫も人間と大差ないらしい。
それまで感じることのなかった猫の鼓動が急に大きくなった――ような気がした。






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