『どうせ、一輝のところに帰っているんだ』
氷河の その推察は外れ、瞬は 翌日になっても 兄の許に帰らなかったらしい。
瞬が無断外泊――それも、もしかしたら二夜連続での――をするなど、未だかつて一度もなかったことで、さすがの一輝が真っ青になっている――ということを、翌早朝、星矢からの電話で氷河は知ることになった。

「瞬が まだ帰ってきていない? まさか……」
それは、一輝でなくても真っ青になる事態である。
実際、星矢からの知らせを受けて、氷河の頬からは血の気が引いた。
あの瞬が、少なくとも自分の意思で兄に心配をかけるようなことをするはずがないのだ。
瞬が昨夜も兄の許に帰っていないというのなら、何らかの事故か事件に巻き込まれたのだとしか考えられない。
『どうせ、一輝のところに帰っているんだ』
なぜ 自分は そんな悠長なことを考え、子供のように拗ねていたのか。
氷河は、自分の危機意識の欠如を深く後悔したのである。
そんな氷河の上に、訳のわからない星矢の報告が降ってくる。

「んで、一輝が今、おまえんちに向かってる」
「なぜだ」
どこかに行くなら、まず警察だろうと、氷河は思ったのである。
いったい 一輝は何を考えているのか。瞬の無断外泊に慌て、取り乱し、一輝は まともな判断ができなくなっているのだろうか――と。
が、一輝の行動は、一輝なりの理屈と判断に基づくものだったのだ。
星矢が少々 疲れたような口調で、一輝の理屈の内実を説明してくれた。

「おまえさ、いつも 瞬に自分とこに来い来いって言ってただろ。一輝は、おまえが瞬を誘拐したに違いないって言ってるんだよ。瞬が二晩も帰ってこないなんて、それしか考えられないって」
「俺が瞬を誘拐? 馬鹿な。俺が そんなことをするわけがないだろう。瞬が自ら望んで、自分の意思で俺のところに来てくれるのでなければ、瞬と一緒にいられても 何の意味もない」
「んー。そうだろうとは思うんだけどさー……。念のために訊くんだけど、ほんとに おまえんとこに瞬はいないんだよな?」
「……」
そんなことを訊いてくるあたり、どうやら星矢も、その可能性は皆無ではないと疑っているらしい。
氷河は、怒りで 腹の奥が熱くなってきてしまったのである。
「とにかく、このままだと喧嘩になる。俺と紫龍も、すぐに家を出て 一輝を追っかけるけど、なんとか穏便に済ませてくれ。ほんとに瞬がいないんなら、家中 好きなだけ一輝に見せてやれば、あいつも納得するだろ」
「……わかった」

瞬が事故か事件に巻き込まれた可能性があるのなら、今すぐ 瞬を探しに行きたいのに、なぜ そんな見当違いをしている瞬の兄の相手などしてやらなければならないのか。
むかっ腹が立って仕方がなかったが、とにかく マンションの建物内で騒ぎを起こされてはたまらない――と思ったところに、来客を知らせるコールが入り、氷河は すぐにエントランスのロックを解錠したのである。
光速とまではいかないが、音速レベルでの移動が可能らしく、エントランスのロック解錠の30秒後には、一輝は 15階にある氷河の部屋のドアの前で、マンション中に響き渡るような大音声を響かせていた。

「瞬を出せっ。貴様が男の分際で瞬に懸想していることは知っている! 事あるごとに 瞬に色目を使いやがって! とにかく、俺は貴様が気に食わなかったんだ! 貴様が あれこれ甘いことを言って 瞬を連れ込んだんだろう! 言っておくが、貴様のしていることは未成年者略取、立派な犯罪だぞっ!」
昨夜は一睡もしていないのだろう。
目を真っ赤に充血させ いきり立っている 暑苦しい顔の男を、できれば部屋には入れたくなかったのだが、放っておくと、近所から苦情が出て、それこそ警察沙汰にもなりかねない。
「一輝。氷河は瞬を連れ込んでないって言ってるし、少しは落ち着けよ」
「星矢の言う通りだ。言っておくが、おまえの その大声も、へたをすると迷惑防止条例違反。警察に逮捕されることもある犯罪だぞ」
幸い、星矢と紫龍も追いついてきてくれたらしい。
猫をベッドルームに避難させ、自身の怒りを抑えるために深呼吸を一つして、氷河は部屋のロックを解除したのだった。

「朝っぱらから、大声を出すな。もし 貴様のせいで、俺が ここから追い出されることになったら、俺は出るところに出て、貴様に損害賠償を請求するぞ」
「やかましいっ! 瞬はどこだ! 瞬、どこにいるっ !? 俺が来たからには、もう大丈夫だぞっ」
『お邪魔します』の一言もなしに 他人の家に上がり込んだ一輝が、手当り次第に 氷河の家のドアというドアを開けてまわる。
リビング、ダイニングキッチン、ベッドルーム、バスルームにベランダ。
果ては、クロゼットやシューズボックス、冷蔵庫のドアまで。
あの瞬の兄が なぜ ここまで礼儀も遠慮も知らないのか。
氷河は それが不思議でならなかった。

「ここには、俺の他には猫しかおらん。俺が いくらアプローチしても、兄貴大事の瞬は、俺の気持ちに一向に気付いてくれない。それは 誰より、おまえが知っているはずだろう」
氷河が何を言っても、それは一輝の耳には届いていないようだった。
この家の主はペットを飼うような男ではないという頭があったのか、氷河のベッドの上に白い猫が ちょこんと載っているのを認めると 僅かに驚いた様子を見せたが、結局、氷河の家で一輝が見付けることのできた氷河以外の生き物は、その猫一匹だけ。
到底 人間が入ることなど不可能なキャビネの中まで、必死になって探している一輝の姿を見ているうちに、氷河は、一輝が なぜ そんな馬鹿げた真似をしているのか、その気持ちが おぼろげながら わかってきたのである。

ここにいてくれと、無事に ここにいてくれと、一輝は それを期待しているのだ。
その期待――むしろ、希望というべきか――を完全に否定されたくないから、一輝は そんな馬鹿げた真似を大真面目に やらかし、やめようとしない。
一輝が 瞬を誰よりも愛し大切に思っていることは、氷河にも否定することはできなかった。
であればこそ、一輝に、
「瞬が、俺のところに来てくれるはずがないだろう」
と告げる氷河の声には、腹立ちより、もどかしさや寂しさの響きの方が強く濃くにじむことになった。

「じゃあ、瞬はどこに行ったんだ! 万一 瞬が死んでいたりしたら、俺も生きてはいないぞっ!」
探せる場所を探し尽くした一輝が、まるで怒りをエネルギーにして張っていた緊張の糸が切れたように力なく、リビングのソファに座り込む。
「いや、瞬はあれでおまえと争うくらい強いし、たとえヤクザに因縁つけられても、平気の平左で躱すだろ。瞬は、単に、帰るに帰れないとこにいるだけだと思うぞ。おまえに惰弱惰弱って言われて落ち込んでたから、おまえに気付かれないとこで 思いっきり泣こうとして外に出て、そこで 電車が止まって動けないとか、困ってる人を ほっとけないでいるとかさ。おまえ、深刻に考えすぎだって」
高校生にもなった弟(当然、男子である)に 一晩か二晩 無断外泊されたくらいで、死ぬの死なないのと大騒ぎをしているデカい図体の男に、星矢は そろそろ疲れを覚え始めていた。

見た目は か弱い美少女で、よからぬ輩に目をつけられる可能性は それなりにあるかもしれないが、瞬の中身は プロの格闘家 顔負けの猛者である。
それもこれも、『男は強くあるべし』という兄の理想に近付きたい一心で、瞬が日々の鍛錬を積んできたから。
あれだけ 健気で可愛い弟、いなくなって心配する一輝の気持ちはわかるのだが、それで 死ぬの死なないのと大声で わめき立てるくらいなら、瞬が家出を決行せざるを得ないような状況を作らずにいればよかったではないか。
「そんなに大騒ぎするくらい大事な弟なら、普段から瞬に そう言っといてやればよかったのに」
そうすれば、瞬は 兄の言葉に落ち込むこともなく、瞬の仲間たちは 休日返上で 瞬の兄の大騒ぎに付き合わされずに済んだのだ。
が、この騒ぎの元凶たる瞬の兄は、正論以外の何物でもない星矢の言に反駁してきた。

「毎日、おまえは可愛い、おまえは世界一の弟だと、瞬に言ってやれというのか」
「言ってやればいいじゃん。『おはよう』の代わりに『今日も可愛いな』、『ごちそうさま』の代わりに『おまえは世界一の弟だ』。大した手間じゃないだろ」
「いちいち 言葉にして言ってやらなくても わかるだろう! 俺が どれだけ瞬を 可愛く思っているか、大事に思っているか、そんなことは 言うまでもないことだ!」
「毎日、惰弱惰弱って、そればっかり言われてて、んなこと、瞬に わかるわけないだろ!」
毎日『可愛い』は言えないのに、『惰弱』は言えるらしい瞬の兄に、星矢の声と言葉は そろそろ怒気を帯び始めていた。
紫龍が、なだめるように、二人の間に入っていく。

「そういう言葉を口にするのは男らしくない軟弱なことと思っているのかもしれないが、星矢の言う通りだ。毎日でなくても、せめて 月に1度くらいは、『おまえは よく出来た弟だ』とか『おまえは俺の自慢の弟だ』とか言ってやっていた方がよかったろうな」
「だから、そんな、わざわざ言うまでもないことを繰り返すのは……」
「瞬は、おまえに惰弱と言われれば、その言葉を信じるんだ。瞬には、おまえの言うことは絶対だから」
星矢と一輝の仲裁に入ったはずの紫龍までが、結局 一輝を責めることになってしまった。
言っていることは星矢と全く同じなのに、紫龍に 落ち着いた口調で そう言われ、一輝も真面目に(?)反省することになったらしい。

真面目に反省して、再び、
「俺の弟は世界一だ! 俺の弟ほど可愛くて 出来のいい弟は、この地上に存在しない! 瞬っ、帰ってきてくれーっ !! 」
今度は 世界中に響き渡るような大音声をあげ始めた瞬の兄に、氷河は 頭を抱えることになってしまったのである。
せめてベランダに続くドアを閉めておけばよかったと思う。
これでは 本当に、近所迷惑だからと このマンションから追い出されてしまいかねない。
最愛の弟のために正直になるにしても、男の沽券や 兄の威厳を維持するために沈黙を守るにしても、この男は言動が極端すぎるのだ――と、氷河が渋面を作った時。

「わああああーっ !! 」
一輝の喚き声と大差ないボリュームの、だが 一輝の胴間声ほど不愉快ではない、聞き覚えのある声が、氷河の家中に響き渡ったのである。
その声は、ベッドルームの方から聞こえてきた。

(瞬…… !? )
と、誰もが 声には出さずに思ったのである。
そして、誰もが一言も口をきかず、氷河のベッドルームに向かって走り出した。






【next】