瞬が 氷河に事情を“聞きに行く”と言って 仲間たちの許から姿を消して、3日。瞬は、仲間たちの許に帰ってこなかった。
氷河と瞬は生きている。
沙織は そう言っていたし、それは星矢にも紫龍にも感じ取れていた。
では、瞬は ドルバルの神闘士に捕えられてしまったのか。
情報を得たら 知らせるというドルバルの約束は 実行されず、二人の消息を確かめるには やはりワルハラ宮に行くしかないと判断した星矢と紫龍が、その計画を練り始めていた頃、思いがけないところから 思いがけない情報が もたらされた。

「ドルバルは、オーディーンの地上代行者とは名ばかりの悪魔です!」
星矢たちに 氷河と瞬の情報を もたらしたのは、代々 アスガルドの主神オーディーンに仕える司祭の家の家令だという壮年の男だった。
彼の主人は、オーディーンの意思に背き、聖域のアテナを倒し 地上支配を目論むドルバルを諌めたために、ドルバルの不興を買い、地下牢に捕われることになったらしい。
危険を冒して、幽閉された主人に接触を試みたが、地下牢は堅固で 脱出は不可能。
囚われの司祭に、ドルバルの野望をアテナに知らせるようにと命じられ、彼は 彼女の許に駆けつけたという。

彼の話によると、アテナがドルバルを訪ねた日の夜、ピンクの聖衣を身にまとった聖闘士がワルハラ宮に忍び込み、ドルバルの神闘士たちに捕えられた。
ドルバルは、その聖闘士を説得するようミッドガルドに命じ、彼に説得された その聖闘士は、今ではドルバルの配下に収まっているという。
「説得って……どういう説得をされれば、あの瞬がアテナを裏切って、ドルバルの側につくっていうんだよ!」
危険を冒して 瞬の消息を知らせてくれた人を責めるつもりはなかったのだが、勇敢な情報提供者は 星矢の怒声を そう受け取ってしまったらしい。

「それは、その……」
彼は ひどく気まずそうな顔になり、口ごもった。
どういう“説得”をされたのかを知らないので 憶測で ものを言いたくないのか、説得の内容を知っていて 事実を語りたくないのか。
憶測にせよ、事実にせよ、それを口にすることが 自分の主人とアスガルドのためにならないと考えたのか、アテナのためにならないと考えたのか。
ともかく、彼は 答えをごまかした。

「何か卑劣な手を使ったのだろうとは思うのですが、命に関わるような拷問を受けたわけではないようです。五体満足で、普通に活動していらっしゃいますので」
命に関わるような拷問を受けていないどころか、瞬は、情報提供者の主人のように牢に幽閉されてはおらず、拘禁されているわけでも 軟禁されているわけでもなく、宮殿内を自由に行き来することを許されているらしい。
ただ、瞬はミッドガルドの言いなりで、ミッドガルドの部下のように振舞っている――という話だった。
それは つまり、瞬が 間接的にドルバルの言いなりで、ドルバルの部下のように振舞っている――ということである。

「氷河だけでなく、瞬までがドルバルの側についたってのかよ? そんなことはあり得ないだろ。瞬は誰よりも地上の平和を願っている奴だぞ!」
もちろん 星矢は、危険を冒して 瞬の消息を知らせてくれた人を責めるつもりはなかった。
危険を冒して 瞬の消息を知らせてくれた親切な情報提供者が、天馬座の聖闘士の大声に 身をすくませていることに気付き、星矢は 慌てて、自分の大声に、
「紫龍、おまえも そう思うだろ!」
という言葉を付け足した。
が、どういうわけか、紫龍がすぐに賛同の意を示してこない。
彼は何事かを考え込むように難しい顔で眉根を寄せている。
星矢が紫龍の態度を訝り 首をかしげると、紫龍は そんな星矢を見やり、短く吐息した。
そうしてから、おもむろに口を開く。

「氷河がアスガルドに向かう直前、宝瓶宮を通りかかった時、奴と瞬がキスしているのを見た」
「はあ?」
それは、星矢には寝耳に水の話だった。
その上、なぜ 今、こんな場面で、紫龍が そんなことを語り出すのかが わからない。
どう反応すればいいのかを迷うことになった星矢に、紫龍が その発言の意図を知らせてくる。
「氷河がアテナを裏切ることは考えられん。地上の平和がどうとか、正義が アテナとドルバルのどちらにあるかとか、そんなことは、この際 大した問題ではない。少なくとも、氷河にとっては大した問題ではないだろう。氷河がアテナを裏切るということは、アテナの聖闘士である瞬の敵にまわるということなんだ」

紫龍が言いたいのは、そういうことだったらしい。
つまり、アテナを裏切ることのできない(はずの)氷河の事情。
「氷河には、平和や正義より、自分が瞬の敵か味方かってことの方が大事なことだよな」
あっさり そう断言する星矢に、紫龍が苦笑を浮かべる。
「氷河は、余程のことがない限り、義より情で動く男だからな」
“余程のこと”というのは、“自分以外の人間の命がかかっている場合”である。
死に瀕しているのが自分自身なら、氷河は平気で 義より情を選ぶ。
そういう男を語る“義の男”紫龍の苦笑の意味するものは複雑だった。

「だからこそ、瞬は単身 乗り込んでいったのだと思う。瞬は、どういう事情で 氷河がドルバルに従っているにしても、“情”で氷河を説得できると考えて、氷河の許に向かったんだ」
「そりゃまあ……瞬に泣かれたら、氷河は簡単に落ちるよな」
氷河が氷河であるなら――氷河が、氷河の仲間たちが知る通りの氷河であるなら――それは確実だった。
だが、だとしたら、氷河は なぜ、たった今もドルバルの神闘士でいるのか。
それだけなら まだしも、容易に氷河を説得できるはずの瞬までが なぜかドルバルの許に留まっている。
それは、氷河の性格と価値観を知っている者たちには 奇異に感じられることだった。

「氷河がドルバルの側についた事情を知り、その事情の不都合を解消できず、氷河を放っておけなくて、氷河の側を離れないために、瞬は ドルバルの陣営に寝返った振りをしているのではないか?」
それは大いにあり得ることだった。
傷付き苦しんでいる者は、敵であっても放っておけない瞬。
それが味方だったら、なおさらである。
氷河を守るためになら、瞬は、ドルバルの陣門に降った振りくらいはするだろう。

「でも、それって、氷河は瞬を、瞬は氷河を、人質に取られてるようなもんじゃないか」
「そして、俺たちは、氷河と瞬を人質に取られているようなものだ」
「瞬の寝返りが振りだったとしても、氷河と瞬の二人が敵かー。きついなー」
諸手を挙げて降参したい、まさに 八方塞がりといっていい状況を認めた星矢は、右手で髪を掻き乱し、ぼやいてしまったのである。
それでも 星矢の口調が暗くならないのは、氷河と瞬が心からドルバルに恭順しているのではないと思うから。
二人が本心ではアテナの聖闘士だと思うからだった。

命がけでワルハラ宮から抜け出してきたのだろう情報提供者が、今ひとつ深刻になっていないように見えるアテナの聖闘士たちを心許なげな面持ちで見詰めている。
何か言いたげに もごもごと口を動かし、だが、結局 彼は黙り込んだ。
深刻になれば解決する問題なら、アテナの聖闘士たちも深刻になるだろう。
そうしないのは、おそらく余裕と勝算があるからなのだと、彼は懸命に自身に言いきかせたようだった。
実際のところは――実は 星矢は、自分では これ以上ないくらい深刻かつ真剣に苦悩しているつもりだったのだ。
もとい、彼は これ以上ないくらい深刻かつ真剣に苦悩していた。

「振りでも 本気でも、万一、瞬と戦わなきゃならないようなことになったら、俺、絶対、瞬の顔は殴れねーぞ。どうにかしてくれよ!」
「アテナの聖闘士が泣き言か?」
紫龍が、星矢のそれよりは深刻そうに聞こえる口調で、呆れたように言う。
そんな紫龍に むっとして、星矢は 思いきり 口をとがらせた。
「んなこと言うなら、もし そういう事態になったら、紫龍、瞬の相手は絶対 おまえがしてくれよ? 俺は氷河と戦うからさ」
「なに?」
星矢に そう言われて、紫龍は初めて、そうなった時のことを真面目に考え、想像したらしい。
彼は ぞっとしたような顔になり、大きく身震いした。

「俺もできれば、氷河の方が――いや、絶対に氷河の方がいい。瞬と戦うのだけは ご免被る」
紫龍が瞬とのバトルに知り込みをしたのは、決して 瞬が強いからではない。
もちろん、それもあったが、それでいうなら 紫龍は、瞬の強さを知っている代わりに 瞬の弱さも知っていたのだ。
紫龍が瞬とのバトルに尻込みしたのは、瞬の強さのせいでも 弱さのせいでもなく――やはり、瞬の顔のせいだった。

瞬の澄んで綺麗な大きな瞳。
よほどのことがない限り――本気で怒っていない限り――優しく、温かく、気弱にさえ見える、瞬の瞳、眼差し。
その澄んで大きな瞳のせいで、美しいのに、“美しい”より“可愛い”印象の強い微笑。
自己主張の強い仲間たちの前で 困ったように微笑み、時に涙で瞳を潤ませながら、仲間たちの心身を気遣う、幼さを感じることさえある瞬の微笑。
そんな瞬の面差しを思い浮かべただけで、紫龍は、『瞬とは戦えない』と思った。
あの顔を殴るだけの度胸は、紫龍には 到底 持ち得ないものだった。

天馬座の聖闘士が泣き言を言いたくなる気持ちを 龍座の聖闘士も解してくれた――と察知した星矢が、しみじみと深い溜め息を洩らす。
「これまで、瞬と戦ってきた奴等って、すげーよな。あの瞬の顔を殴れたんだぜ」
皮肉でも 冗談でもなく――それは、腹の底からの感嘆だった。
星矢に同意し頷きかけた紫龍が、その動作を途中で止める。

「確認したことはないが、瞬の顔を殴れた敵は、これまで ほとんど いなかったのではないか? 俺も瞬のバトルを すべて見てきたわけではないが――だいたいが、瞬の首から下に攻撃を仕掛けていたと記憶している。それで倒れた瞬が、結果的に あの顔で岩を削ることになっただけで。瞬の顔を殴ることができたのは、せいぜい一輝くらいのものだろう」
言われた星矢が、一瞬 きょとんとする。
記憶の糸を辿り、自分が 紫龍の発言への反証となるバトルの記憶を持っていないことを確認して、星矢は 改めて得心した。
「そりゃ、そーだよなー。あの顔を殴れたら、そいつは人間じゃないよなー」
星矢は、自分が、『一輝は人間ではない』と言っていることに気付いていないようだった。
あえて否定するようなことでもないので、紫龍も その件については沈黙を守ったのである。

「あの……それで……」
仕える主人のために危険を冒して ワルハラ宮を抜け出してきた情報提供者は、余裕のありすぎる――緊張感のなさすぎる――アテナの聖闘士たちのやりとりに接し、大いに困惑しているようだった。
自分が乗り込んだ船が、安全で安心できる大船なのか、いつ沈むともしれない泥船なのかを判断しきれずに。






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