翌日、翌朝。
氷河の一日は、諸悪の根源であるところの星矢を怒鳴りつけることから始まった。
「それも これも、星矢っ! 貴様が うまいボーの値段が安いの高いのと、くだらない話を始めてくれたからだぞっ! 貴様のせいで、俺は、瞬との限りある貴重な一晩を無為に過ごすことになってしまったんだ! この落とし前を どうつけてくれるっ」
「んな、瞬とやれなかったのを、俺のせいにすんなよ!」
「瞬のせいにできるかっ! 俺はやる気満々だったし、瞬に非があるわけがないから、やはり、貴様のせいだ!」
毎度のことではあるが、今日も氷河の主張は論理が破綻している。
甲と乙の合意によってのみ 成し遂げられる事業が成し遂げられなかったなら、その原因は甲と乙の どちらかにあるに決まっているのに、氷河は極めてナチュラルに、その理屈を否定してのけるのだ。

「瞬って、何かと いろいろ真面目に考えすぎなんだよな」
「瞬のせいにするなっ。貴様が考えなさすぎなんだっ!」
朝から 氷河の“理外の理”攻撃に さらされた星矢は、うんざりした顔で、
「おまえにだけは言われたくない」
と応じることになった。

とはいえ、星矢は、氷河が“ものを考えない男”でないことは、よくよく承知していた。
むしろ 氷河は“考える男”だし、頭の回転も速いのだ。
ただ その考えが、何も考えていないのではないかと思うほど速く結論に至るので、常人には 氷河の思考を理解しきれないだけで。
普通の人間は 地球から月に行く際には ロケットに乗って4日の時間を要するが、氷河は ワープ航法を用いて一瞬で到達する。
しかも 氷河は そのワープ航法の実践過程の説明を怠るのが常であるため、常識人には 氷河が何も考えていないように見えるのだ。

そういう氷河内の事情は どうあれ、白鳥座の聖闘士が 他者を疲れさせる男だということは、誰にも否定できない 紛れもない事実。
朝から疲労困憊状態の星矢に、紫龍が同情の眼差しを投げてきた。
「だが、そんなふうに真面目に悩むところが、瞬の瞬たる所以(ゆえん)、瞬らしいところだ。瞬が悩まなくなったら――」
紫龍が そこで言葉を途切らせたのは、彼が 彼の仲間である氷河の立場と気持ちを思い遣ったからだった。
が、あいにく 星矢は、たった今 氷河のせいで被った多大な疲労のために、仲間の立場や気持ちを思い遣るだけの力を持つことができなかったのである。
紫龍が 氷河のために濁した言葉を、星矢は あっさり口にした。
「地上の平和を乱す敵を、瞬が冷徹に情け容赦なく倒すようになったら、最強最悪の聖闘士ができあがっちまうよな。んで、そうなったら、氷河や一輝の存在意義は ほとんどなくなる」

その言葉に口許を ぴくりと引きつらせた氷河が 星矢への反駁に及ばなかったのは、疲労のために仲間への思い遣りを欠くことになった星矢の結論が、
「だから、やっぱ、瞬は今のままでいいと思うなー」
だったからだった。
その結論には、氷河も異議はなかったのである。
異議はなかった。
だが、不都合はある。
つまり、『それでは、白鳥座の聖闘士が したいことができない』という大問題が。
無論、それは氷河だけにとっての大問題であり、星矢にとっては 問題ですらなかった。

「瞬は 潔癖なんだよな。正しい目的のためなら 手段は選ばない――ってのが できない。手段も目的も 清く正しく美しいことを求める」
「乙女座の人間は 完全主義者でもあるらしいしな」
「紫龍、おまえ、星座占いなんて信じてんのかよ?」
星座の聖衣を まとって戦う聖闘士でありながら 星座占いには全く関心のない星矢が、意外そうな声で紫龍に尋ねる。
紫龍からは、
「信じているわけではない。俺と老師、瞬とシャカが同じ星座なんだぞ。信じろという方が無理だ」
という、意外ではない答えが返ってきた。
星矢が、意外ではない紫龍の返事に首肯し、安心したように笑う。

「アテナへの忠誠、強さ、平和を願う心、愛、かあ……。沙織さんが聖闘士だったら、まさに完璧な聖闘士なんだけど、その沙織さんも アテナとしては少々 問題があるからなー。本陣に でんと構えててくれればいいのに、いつも先頭切って敵陣に突入して、敵さんに捕まってくれてさ」
「それをしてくれるから、アテナとして完璧という見方もあるがな」
その見方は、ある意味で筋が通っている――と言えなくもない。
アテナの その行動は、彼女の聖闘士たちとっては 一利一害といっていい行動だった。
星矢が苦笑としか表しようのない苦笑を浮かべる。

「沙織さんがピンチに陥ってくれないと、俺たちの出番がないもんな」
「そして、俺たちが 地上の平和を守るために 満身創痍になるまで戦うから、アテナは その姿を見て、人間の愛と 平和を願う心を信じ、神でありながら人間の側に立って戦ってくれるわけだ。案外 沙織さんは、瞬の迷う様を好ましいことと思っているのかもしれないぞ。『愛』という漢字は、頭を巡らせ 足を引きずりながら、人の心を知ろうと悩む姿を形にしたものだそうだからな」
「へー、そうなんだ。俺なんか、考えるのが面倒だから、愛だの平和だの、そんな ややこしいこと、真面目に考えたこともないけどな。瞬が真面目に悩んで考えて、結局は 戦うことを選ぶから、一緒に戦ってりゃ 間違いないだろうって思って戦ってるようなもんだぜ」
「……」

星矢が笑いながら告げた その言葉に 氷河が微妙に顔を歪めたのは、彼が 自分と星矢を同じものだと思いたくなかったからだったろう。
氷河もまた、瞬が聖闘士でいるから、聖闘士であり続ける男だったのだ。
そんな氷河に ちらりと皮肉が勝った一瞥を投げてから、紫龍が 星矢の上に視線を戻す。
「アテナの聖闘士が 愛や平和について考えることをしないのは 少々 問題のような気もするが、そんなふうに 迷いなく戦う おまえがアテナの聖闘士の鑑という考えも成り立つな」

“神”というものは、信じるために 人間が作ったもの。
信じるために作ったものを疑うのはナンセンスである。
神の存在を疑う者は、そもそも 神を必要としていない者たちなのだ。
何も考えずに 神を信じることができるのなら、その人間は幸福な人間である。
それは、“戦い”も“正義”も似たり寄ったり。
そして、瞬は、そういう幸福な人間とは異なり、信じたいから 迷い疑う人間なのだ。

「瞬が あれこれ悩んで考えて、一輝と氷河が そんな瞬を支えて、瞬の出した結論を俺が実行して、紫龍が統括マネージメントって感じか」
かなり大雑把にすぎる星矢の役割分担説には 即座に頷けなかった紫龍も、
「もしかして 俺たちって、一人一人は聖闘士としては欠点だらけでも、全員揃えば 聖闘士の鑑なんじゃないか?」
という星矢の結論は、存外 素直に受け入れることができた。
それは、実は“義”より“(友)情”の男である紫龍には “そう悪くない結論”だったのだ。

「かもしれんな」
微笑して、紫龍が賛同の意を示す。
「うん。じゃあ、そういうことにしようぜ」
星矢もまた 満足げに 大きく頷き、頷いてしまってから、その結論で このディスカッションを終えてしまう訳には いかないのだということを思い出した。
“理想のアテナの聖闘士”“聖闘士の鑑”とは いかなるものか、そして それは誰なのか――という問題の答えは それでいいかもしれないが、氷河の問題は まだ1ミリたりとも解決していないのである。
氷河の顔は、相変わらず不機嫌なままだった。


「迷う瞬は可愛いと思う。そういう瞬だから、俺は瞬を好きだし、瞬を信じるに足る人間だと思う。もちろん敬意も抱いている。しかしだな!」
「そのたびに ベッドから締め出しを食らうのは困ると」
「そういうことだ」
氷河にとっては極めて深刻で、何としても解決を見なければならない問題。
だが、アテナの聖闘士としては、それが 胸を張って堂々と苦悩していていい問題でないことは、氷河も自覚していたので、彼は ごほんと わざとらしい咳払いをして、自らの きまりの悪さをごまかした。
それでも その問題提起をやめるつもりのないらしい氷河に、星矢は 尊敬と軽蔑の入り混じった視線を投げることになったのである。

「理想のアテナの聖闘士が どんなもんで、聖闘士の鑑が誰なのかって問題については、俺たちには 俺たちなりの答えしか出せないし、それが正しい答えなのかどうかも 俺には わかんないけどさ。おまえがアテナの聖闘士失格だってことだけは、俺が保証してやるぜ」
聖闘士失格でも、理想の聖闘士でなくても、聖闘士の鑑でなくても、その務めを果たすことはできる。
それがアテナの聖闘士というものだった。

「百合は、純粋、純潔、無垢。薔薇は、愛、恋、情熱。誰だ、こんな組み合わせで花を飾ったのは」
突然 紫龍が そんなことをぼやいたのは、ラウンジの隅のフラワースタンドに置かれた花瓶に飾られていたものが その二種類の花をメインに据えたアレンジメントだったから――のようだった。
純白の百合と真紅の薔薇。
美しいこと以外に、似たところが全くない二つの花。
それは、どこぞのアンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士のような組み合わせだったのだ。
紫龍の口調が非難めくのも、この場では致し方のないことだったかもしれない。
もっとも、紫龍の非難は 氷河には全く通じていないようだったが。

通じてはいなかったのだろうが。
「なるほど。それでいくか」
氷河の思考は、お得意のワープ航法を発動したらしい。
純白の百合と真紅の薔薇。
全く似ていないのに、共に在ると更に美しさを増す二つの花。
氷河が 花瓶から真紅の薔薇を1本 抜き取った時、瞬がラウンジに入ってきた。






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