氷河にとって薔薇の花は、彼の母に捧げるためにある花。 氷河当人に そう言われたことはなかったが、おそらく そうなのだろうと、瞬は思っていた。 だから、日本で、しかも屋内で 薔薇を手にしている氷河の姿を認めた時、瞬は、一瞬 奇妙な違和感を覚えてしまったのである。 その上、彼の母のためにある(はずの)真紅の薔薇の花を、彼は 聖闘士失格の仲間の前に ずいと突きつけてきた。 氷河の意図が わからず、瞬が戸惑う。 瞬の戸惑いに気付いていないはずはないのに――あるいは、気付いているから? ――氷河は その戸惑いを無視して、彼の語りたいことを語り始めた。 「綺麗だろう? “熱情”という名の薔薇だ」 「熱情……? う……うん、綺麗だね」 氷河は、山茶花と椿の区別もつかないくせに、薔薇に関してだけは異様に詳しい。 それが『氷河にとって、薔薇は特別な花なのだろう』と 瞬が思っている理由でもあったのだが、それは さておき、氷河が瞬に示した薔薇は、氷河の言う通り、確かに綺麗な花だった。 “赤い薔薇”と言われれば、誰もが この花の姿を思い浮かべるに違いないと確信できるような、まさに“赤い薔薇”の理想形をしている。 瞬が訝りながら頷くと、氷河は僅かに口角を上げた。 「ああ。日本の薔薇の父、ミスター・ローズとも言われた鈴木省三が作った薔薇だ。彼は、他にも、赤、白、橙、ピンク、様々な色の薔薇を作っている。日本で生まれた新種の薔薇178品種中108種が彼の手になるものなんだ」 「日本の薔薇の父? すごいね」 『だから、どうだというのだ』と、胸中で思ったのは星矢だった。 おそらく、瞬も似たり寄ったりの気持ちでいただろう。 ただ 瞬は、思ったことを言葉にはせず――百合の花のように何も言わず――氷河の続く言葉を待つ。 そこが、天馬座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士との違い。 瞬が、人に“大人しく控えめ”な印象を与える要因なのだと、星矢は思っていた。 「その日本の薔薇の父が言っている。『もし完全に青い薔薇ができたとして、人は それを美しいと思うだろうか』と」 「え……」 星矢は『まわりくどい言い方をするな。単刀直入に、わかりやすく言え!』と言う顔になり、瞬は やはり野の百合のように静かに、氷河の言葉を待っている。 それは、氷河のワープ航法に接した時の、いつもの瞬の対応だった。 今回も 瞬は、いつも通り、氷河の思考の着地点を 氷河が示してくれるのを黙って待っている。 待っているはずだったのだが。 氷河が再度 口を開く前に、瞬は はっとしたように顔を上げた。 「おまえが 全く欠点のない、かくあるべき理想通りの聖闘士になったとする。その時、アテナは そんなおまえを愛し、信じてくれると思うか」 「……」 瞬が察した氷河の着地点と、実際の氷河の着地点は同じだったのだろう。 瞬は 切なげに眉根を寄せ、今は明確な着地点に立つ氷河の顔を見上げ、見詰めた。 「完璧な聖闘士は、地上の平和を守り抜くことができるだろうか」 「……」 「俺は そうは思わない」 「……」 英語で『 Blue Rose 』といえば、それは 存在しないものの象徴である。 その存在しないものを作るために、青色を示す遺伝子を探し、見付け、特許登録している者もいるという話を、以前 瞬は氷河から聞いたことがあった。 その時の氷河の声音は、どういう聞き方をしても その努力を快く思っていない人間のそれだった。 「アテナへの完璧な忠誠、どんな邪悪をも冷徹に打ち倒すことのできる完璧な強さ。そんなものは、心のない機械にしか持ち得ないものだろう。自分で悩み考えた理想や目的のためではなく、アテナに示された大義だけに盲目的に従い戦う聖闘士を、アテナは信じない。そんな奴は、回線が一つ狂ったり 切れたりしたら――ふとした きっかけでアテナを信じることができなくなれば、簡単にアテナに造反するに決まっているからな。そもそも 聖闘士は、ひたすらアテナに忠実であればいいというものではないだろう。もしアテナが人間に愛想を尽かして見限り、人間など滅んでもいいと考えるようになったら、それでも おまえはアテナに従うか。従うことを正しいことを思うか。最強の聖闘士になれたとして、その力を何のために どんなふうに用いるのかは、自分で悩み考え決定しなければならない。地上の平和を願う心と愛を、おまえは聖闘士でなくても持てるものだといったが、それでもやはり 聖闘士にとって最も大切なものは地上の平和を願う心と愛だと、俺は思う。それを、おまえは持っている」 「氷河……」 「地上の平和を願う心と愛。それは、確かに おまえの言う通り、聖闘士でなくても持てるものだ。だが、だからといって、それが無価値なものであるはずがない。そして、おまえの地上の平和を願う心と愛は、誰よりも強く強固だ」 地上の平和を願う心と愛があれば、戦うことが嫌いでも、戦いを ためらうことがあってもいいのだと、氷河は言っていた。 それどころか、戦うことができなくても、強くなくても、アテナの聖闘士であり続けることはできる――と。 現に戦い、現に強い瞬に向かって。 懸命に戦い、必死に強くあろうとしている瞬の瞳が 涙で潤み始める。 「おまえは迷っていていいんだ。それで動けなくなっても、戦えなくなっても、迷い苦しんだ末に、再び おまえは動き出す。そして、再び 戦うことを始める。そんなおまえを支えるために、俺がいるんだから」 「うん……」 赤い薔薇から始まった氷河の話が、なぜ そんなところに着地するのか、星矢には まだ 今ひとつ わかっていなかったのだが、“考える”のは彼の仕事ではない。 氷河のワープ航法(話法というべきか)で、瞬が元気になってくれるなら、星矢は それでよかった。 そして、瞬は 実際に元気になってくれたのだから、氷河のワープ話法に文句を言う筋合いはない。 氷河は――氷河も、彼の務めを しっかり果たした。 アテナの聖闘士たちは、それぞれの場所で それぞれが果たすべき仕事を着実に遂行しているのだ。 「うん。ありがとう。ごめんね」 瞬が潤んだ瞳で、氷河に――自らの職務に忠実な氷河に、礼を言う。 瞬の(今回の)迷いは、氷河の尽力によって(?)無事に解消したようだった。 まさに いつも通り、まさに予定調和といっていい、美しい結末。 氷河が完遂した職務の内容に、星矢は、本当に、本気で、全く 文句を言うつもりはなかったのである。 星矢のその“つもり”を撤回させたのは、 「よし、じゃあ、今夜は 迷うことなく、俺の胸に飛び込んでくるんだぞ!」 という、氷河の嬉しそうな痴れ言だった。 「氷河。おまえ、やたら かっこいいこと言って、結局それなのかよ !? 」 星矢が 心底から嫌そうに顔を歪め、 「何か問題があるのか?」 氷河が、(こんな時だけクールに)平然と問い返してくる。 さすがは氷雪の聖闘士。 絶句が、凍りついた星矢の答えだった。 氷河も、彼一人では聖闘士失格なのである。 それでも――そんな氷河でも 彼もアテナの聖闘士として幾多の戦いを戦い、そして 地上の平和を守ることを続けてきた――続けてこれたのだ。 完璧な聖闘士。 理想の聖闘士。 聖闘士の鑑。 氷河の言う通り、それは青い薔薇のようなものなのかもしれない。 青い薔薇――“不可能なこと”“存在し得ないもの”。 完璧な聖闘士、理想の聖闘士、聖闘士の鑑。 それは、存在し得ないものであるからこそ、価値があるもの。 存在し得ないものでいていいものなのだ。おそらく。 |