白い月は 半月ではなかった。 真円の月が雲に半分隠れているのだ。 そのため、南の国の王宮の夜の庭は さほど明るくはなかった。 だが、広い庭に植えられているオレンジの実が 微かな月の光を受けて 幾つもの丸い灯のように見えるせいで、庭に佇む人間に“暗い”という印象を抱かせない。 北の国は既に雪に閉ざされている時季だというのに、ここではオレンジの実を見ることができる。 南の国との友好が成ったら、この実を輸入して、南の太陽の味を国民に味わわせてやることもできるだろう。 氷河は、北の国では育たないオレンジの木を眺めながら、そんな楽しい夢想を楽しんでいた。 白一色の北の国は美しい。 しかし、そこに、春の大地に咲く花のような瞬と、小さな真夏の太陽のようなオレンジの実を連れ帰れば、北の国の民は、その温かさ、その鮮やかさに、生きる喜びを見い出すことになるに違いない――と。 氷河の そんな楽しい夢想を中断させたのは、太陽の実をつけている木々の間から 現われた、北風のような印象を持つ男だった。 南の大国の王が 遠来の客を もてなすことをせず 放っておくのを幸い、城下の街に出て、南の大国の王と国情についての情報収集に いそしんでいたアイザック。 異国の王宮に 自国の王を残し、アイザックが その仕事に熱心に従事しているのは、彼が仕えている主君が氷河ではなく、彼自身の野心だからである。 氷河の恋の前途に山積している多くの障害。 自分が取り除かなければならない第一の障害は、瞬の兄ではなく アイザックの野心なのだと、従兄の姿を数日振りに認めて、氷河は気付いた。 「城下の街で、この国の軍に籍を置いたことのある者たちや、国王が生まれた時に王宮に勤めていた者たちを見付け出して 探りを入れてみたんだが……王の秘密は固く守られ、見事に秘匿されていた。誰か一人くらい、何かを知っている者がいるかと期待していたんだが」 この数日間の活動で いかなる成果もあげられなかったことを、アイザックが氷河に報告してくる。 アイザックは忌々しげな表情をしていたが、アイザックの無成果は 氷河には喜ばしいことだった。 アイザックが何らかの有意義な情報を手に入れると、彼は その情報を元に 次の行動に出ようとするだろう。 彼の仕事に 何の進展もないことは、氷河には幸いなことだったのだ。 「自分の秘密を外部に漏らすほど、この国の王は迂闊ではないだろう。ほんの数年で、南の辺境の中規模国にすぎなかった この国を 南の大国と呼ばれるほどの国にした男が」 「ふん」 氷河の言葉を 敵国の王への称賛と受け取ったのか、アイザックは 不愉快そうに短く鼻を鳴らした。 「南の大国の王の持つ力は、戦での勝利、強さ、敗北を知らずに済む力――そんなものなのではないかという噂だったな。王弟の方は、優しさ、美しさ、清らかさ、魅了の力といったところか。無論、それも噂――平民たちの勝手な推測にすぎないがな」 「ははは。優しさ、美しさ、清らかさ、魅了の力か」 あの瞬に対して、誰しも考えることは同じらしい。 大国の王である自分の考えが、平民のそれと同じレベルだということに、氷河は苦笑した。 「おまえの方は何か探り出せたのか。肝心の王には ほとんど接触せず、ひ弱そうな王弟の相手ばかりしているそうじゃないか。何か計画があるのか」 アイザックの発想は、庶民のものとは異なる。 そういう発想しかできない男に、なるべく刺激を与えず、怒らせることなく、できる限り穏便に、その野心を諦めさせるには どうすればいいのか。 アイザックの登場で、氷河は、楽しい夢想をやめ、楽しくないことを考え始めなければならなくなった。 「今のところは何も。だが、兄の方が地上で最も強い男――という可能性は大きいだろうな。瞬が、軍事国防の方は 兄に任せておけば間違いはないと信じて、全く心配していないようだったから」 となれば、南北の大国の戦いは、“最強の王”と“無敵の王”の ぶつかり合いということになる。 そんな戦いが始まったら、この地上世界は どんなことになるのか。 北の国が勝てるとは限らない。 だから 危険な野心は捨てろと、氷河は言ったつもりだったのだが、残念ながら、氷河の意図はアイザックには全く通じなかった。 「そうか。では、正攻法では倒せないということだな」 王にはなれない自分でも抱く野心。 その野心を、王なら 当然 抱いているものと、アイザックは決めつけているのだ。 「“地上で最も強い男”に死んでもらうには、力ではない手段を用いなければならんな。策略、病、女、毒。王の命さえ奪えば、あとは あの非力な弟だけ。弟の方は殺すのは簡単だ。それで、南の大国は この地上から消滅することになる。全世界がおまえのものになるんだ」 「……」 そうなったら、どうだというのか。 そんな夢想は、オレンジの実を一つ 北の国に持ち帰ることほどにも 氷河の心を楽しませなかった。 アイザックの野心は、正しく夢想である。 彼の野望は決して実現しないと、氷河は思っていた――ほぼ確信していた。 神々が、“地上のすべてを支配する力”と“永遠の命”だけは 人間に与えないことの意味を、アイザックは考えていないのだ。 人間のために地上世界を創った時、神々が作った100の王国。 その王国が、今では10にも足りない。 しかも、その10にも足りない王国が、南北2つの大国の いずれかの陣営に属して存続している。 それは事実である。 多くの王国が、この地上世界から消えていった。 だが――この地上に存在する国は、2国になることはあっても、1国になることはないのだ。 神は、一人の王が 地上世界のすべてを支配することを許す気はないのだから。 氷河は 以前は――アイザックの野心に積極的に反対する必要を覚えていなかった頃には――もし 南の大国を自国に併合することができたなら――できたとしても――ごく小さな国を独立国として1国は残しておかなければならないだろうと考えていた。 瞬に会う以前は――である。 今は事情が変わった――氷河の心は変わった。 氷河は、今では 南北の大国が友好的に並立することを願っていた。 「瞬を殺すことなど……」 「王族の命を奪うのは気乗りがしないか。だが、王族を殺せるのは王族だけなんだ。こればかりは、おまえに手を汚してもらわねばならん」 「俺は、瞬を殺さない」 そんなことができるわけがないではないか。 瞬の命を奪うということは、今の氷河には 自分の命を絶つのと同じことだった。 「まあ、兄王なら ともかく、優しさや美しさばかりが取り沙汰されるような ひ弱な王子を手に掛けるのは、おまえも気が進まんだろうが……。なら、弟の方は、殺さずに、どこかに幽閉すればいい。要するに 子を作らせなければいいんだ。それで、この国は地上世界から消える」 「瞬を幽閉?」 アイザックは、彼の国の王が 南の大国の王子を恋していることを知らない。 恋する王の心を まるでわかっていない。 そんなアイザックの策など、聞くに値しないと思う。 聞くに値しないと思いはするのだが、そして 瞬を幽閉することなど絶対にできないとも思うのだが、では 瞬を常に自分の側に置くのに 他にどんな術があるだろうか――と、氷河は ふと思ってしまったのである。 心優しく美しい弟を溺愛している兄王は、よほどのことがない限り――よほどのことがあっても――異国の王に瞬を渡したりはしないだろう。 氷河は、決して本気ではなかった。 本気で、そんなことを口にしたわけではなかった。 そんなことをしたら、瞬に愛されるどころか 憎まれることになりかねない。 本当に、絶対に、本気ではなかったのである。 ただ 他に妙案が思い浮かばず、つい 呟いてしまっただけだったのだ。 「瞬を幽閉……それしかないのか……」 ――と。 氷河が そう呟いた時、月を半分 隠していた雲が風で流れた。 そして、氷河は、その光の中に瞬が立っていることに気付いたのである。 |