瞬の頬が青ざめて見える理由を月の光のせいだと思うほど、氷河は のんきには できていなかった。もとい、月の光の中に 瞬の姿を見い出すまでは、氷河は確かに緊張感を欠いていた。 北の大国を地上で唯一の国にしたいというアイザックの野心を穏便に諦めさせたい氷河は、野望実現のためにアイザックが語る言葉を、全く気乗りせずに 聞き流していたのだから。 だから、その呟きも、絶対に、決して、本気のものではなかったのだ。 真剣に考えて発した言葉ではない。 呟きは、単なる呟きにすぎなかった。 とはいえ、それは瞬には決して聞かれてはならない呟きでもあった。 「瞬……」 「氷河……」 瞬の瞳が、月の光のかけらのような涙の雫を はらはらと頬に散らす。 「違うんだ、瞬。俺は……」 自身の迂闊に ほぞを噛み、氷河は即座に その心身に緊張感を取り戻した。 が、どうやら、人間は、緊張すれば心身の活動が活発になるというものではないらしい。 この途轍もない窮地を脱するために、すぐさま瞬の誤解を解かなければならないと思うのに、そのための方策を 頭は めまぐるしく考えているというのに、その思考は空回りを続けるばかりで、氷河は 適切な言葉一つ思いつくことができなかった。 氷河が 月の下で呟いた呟きは決して本気のものではなかったのだが、どこかに本気でなくもない部分もあって――へたな言い訳をすると、それは嘘になってしまいかねなかったのだ。 そして、氷河は、瞬に嘘は言いたくなかった。 しかし、真実も言えない――。 瞬の前で 誠実な男でありたいと願う気持ちと、瞬と決裂する事態だけは避けたいと思う気持ちの間で、氷河は身動きができなくなっていたのである。 そんな氷河に比して、アイザックの行動は素早かった。 月の光の中に立つ瞬の側に大股で歩み寄り、アイザックが 瞬の細い腕を乱暴に掴みあげる。 「兄君に ご注進されては困るのですよ。花のような王子様」 慇懃に 皮肉げに 瞬に そう告げてから、瞬の腕を掴んだまま、アイザックは氷河の方を振り返った。 「いっそ この王子を人質にして、兄をおびき寄せ、自分で命を絶たせるというのはどうだ。この国の王は ただ一人の肉親である弟を溺愛しているそうじゃないか」 「そんなことができるかっ!」 怒鳴り終えるより先に、氷河は アイザックから瞬の身体を奪い取った。 アイザックの手からは逃げようとしなかった瞬が、氷河の手からは逃げようとする。 瞬のその振舞いが――瞬の心が――氷河の顔を つらさに歪ませた。 それで、アイザックは事情を察したらしい。 北の大国の王が、肝心の敵国の王には関心を示さず、その弟にばかり接触していた理由を、アイザックは理解したようだった。 「魅了の力を与えられた王子というのは当たっているのかもしれないな。氷河、おまえ、そのガキに たらしこまれたんだろう。なるほど美形だ」 アイザックが瞬の前に立ち、まるで値踏みするように しげしげと 瞬の顔を視線で舐めまわす。 意地の悪い笑みを作って、彼は誰にともなく頷いた。 「なら、早々に、南の国の侵略の準備に取り掛かる必要があるな。最強の王には すみやかに死んでもらって、この豊かな国を手に入れ、ついでに可憐な弟君は おまえの慰みもの。おまえは この地上で唯一の支配者になる」 アイザックは 神々の祝福を与えられた王でも王子でもない。 彼自身は 地上世界の支配者どころか、一国の王にもなれない。 だが、だからこそ、アイザックは 氷河より一層 野心的だった。 そして 彼は王でも王子でもないから、国や世界や民に対して 王が負う責任というものを 一切考えていない。 であればこそ、彼は無謀だった。 しかし、氷河はアイザックとは立場が異なる。 南の国の王子である瞬もまた――瞬は、そんな氷河ともアイザックとも違う場所に立っていた。 「僕を そんなことに利用はさせません」 言うなり、瞬が奪ったのは、アイザックが その腰に帯びていた剣だった。 その あまりの素早さに、アイザックが呆然とする。 一瞬 アイザックは我が身に何が起こったのかを理解できずにいたようだった、 アイザック自身、かなりの使い手という自負があったので、花のような姿をした王子に 不意を突かれたことは、彼には かなりショックだったらしい。 瞬の行動に驚いたのは、アイザックだけでなく――それは氷河も同様だった。 瞬が剣を手に取って、氷河とアイザックに対峙する。 瞬が手にした剣の切っ先はアイザックではなく氷河に向けられていた。 丸腰のアイザックに剣を向けることができなかったからなのか、それとも自分が倒すべき敵は 北の大国の王だと定めたからなのか。 後者であったとしても、氷河は瞬と戦うわけにはいかなかった。 「瞬、やめろ。剣を下ろせ。俺は、俺の行く手に立ち塞がる敵をすべて打ち倒す力を神々に与えられている。俺におまえを殺させないでくれ」 自分が絶対的優位に立っていると思うから、氷河の声音は哀願めいたものになった。 氷河の“力”を知っている瞬は、だが、全く 怯む様子を見せない。 怯むどころか。 瞬は、氷河が見知っている瞬とは別人のような力強さで、挑むような視線を氷河の上に据え、 「その力、使ってご覧なさい」 と、北の大国の王を挑発してきた。 「なに……?」 瞬の声、瞬の態度は、自分が北の国の王に打ち倒されることなど万に一つもないと考えている人間の それだった。 自信に満ちた瞬の様子を見て、氷河は初めて、ある一つの可能性に思い至ったのである。 瞬を倒すためにではなく、その可能性の真偽を確認するために、氷河はみずからの剣の柄を握った。 “行く手に立ち塞がる敵をすべて打ち倒す力”を持った王は、だが、鞘から剣を抜くこともできなかった。 氷河は瞬を倒せなかった。 倒す以前――動けなかった。 瞬は、剣を鞘から抜くこともできずにいる氷河を その澄んだ瞳で じっと見詰めていているばかりである。 瞬には、“行く手に立ち塞がる敵をすべて打ち倒す力”を神々に与えられた男を恐れている様子が 全くなかった。 氷河が初めて思い至った、ある一つの可能性。 氷河は 震える唇で、その可能性の真偽を 瞬に尋ねていったのである。 「おまえが地上で最も強い力を与えられた王子なのか? そうなのか?」 さすがに それは アイザックにも意想外のことだったらしい。 氷河が口にした“可能性”を聞いたアイザックが、ぎくりと顔を強張らせる。 瞬は――瞬は無言だった。 何も答えなかった――否定しなかった。 答える代わりに、無言のまま、瞬は アイザックの剣をアイザックに返した。 アイザックは神々の祝福を受けた王子ではないので、瞬の命を奪うことはできない。 だが、氷河の目には、一国の王子の生死に関与する力を持たないアイザックを侮って、瞬が彼に剣を返したようには見えなかった。 「きっと、僕は氷河の敵として ここにいないから、氷河は僕を倒せないのでしょう」 「なぜ敵じゃないんだ」 北の国の王は、瞬の兄の命を奪い、その国を奪うために、この国にやってきた男である。 事実は そうではなかったが、先刻の呟きは 瞬に そう思わせることのできる呟きだったはず。 だというのに、瞬は、 「僕は氷河を信じています」 と言った。 挑発の響きも 哀願の響きも 失望の響きも 憤怒の響きもない、素直で穏やかな声と眼差しで。 「……ごめんなさい。僕が軽率でした。兄の命を奪うという話を聞かされて、つい取り乱してしまいました。氷河はそんなことはしない。氷河は、氷河のお母様を愛し、氷河のお母様に愛された人。氷河が そんなことをするはずがない」 「瞬……」 もちろん、そうである。 瞬の判断に間違いはない。 “氷河”が“瞬”に そんなことをするわけがない。 だが、だとしたら――アイザックから奪った剣を 瞬がアイザックに返した訳が、“瞬が氷河を信じているから”で、“瞬が、神々から 地上で最も強い力を与えられているから”でないのだとしたら――。 |