瞬の仕事は完璧――もとい、期待以上――否、瞬は、氷河が期待してもいなかった分野でまで、素晴らしい成果を挙げてくれた。
もしかしたら 瞬は、以前にも、かなり大きな屋敷の切り盛りをしたことがあるのかもしれない。
減らすべき人材や経費は減らし、増やすべきところは増やし――瞬が来た途端、氷河の屋敷の維持管理費は半減した。
節約の必要はないし、さすがに『使っていない部屋を貸し出してみては?』という瞬の提案は却下したのだが、もし瞬の提案を容れていたら、氷河の無駄使い邸宅は、支出より収入の方が勝る優良不動産になっていたかもしれない。

期待していなかった分野でですら 成果を出してみせる瞬の、期待していた分野での仕事振りは、なおさら素晴らしかった。
つまり、氷河のスケジュール設定業務においても。
「ロシアではないのですが、北欧の建築や家具、雑貨のデザイナー集団の代表が 妹さんと一緒に来日しているんです。才能ある若手デザイナーを育成し、北欧の伝統工芸技術保護のため活動をされている方で、そのPRと協賛者を求めての来日。お話を聞いてみる価値はあるかと思うんですが」
「両親と暮らせない児童の教育の機会を増やし、その才能を伸ばすための活動を行なっているNPO法人が、資金調達のための説明会を開催するんです。お話だけでも聞いてみませんか?」

瞬の説明は事実だったし、実際 瞬が氷河のスケジュールに組み込むイベントは どれも有益と感じられるものだったのだが、それらの会合に 洩れなく妙齢のご婦人がついてくるのが、氷河には不快だった。
「瞬。おまえの正体は やり手ばばあか」
「え……」
自分の雇用主が どういう意味で そんなことを問うてくるのかを、瞬は瞬時に理解したようだった。
瞬は 自分の画策を ごまかそうとするのか、言い訳をしてくるのか。
その いずれかのパターンをしか考えていなかった氷河の予想を、瞬があっさりと裏切る。
「すみません。差し出がましいことをしてしまいました。フレアさんや絵梨衣さんは お綺麗な方ですし、人柄もいいので、もしかしたら――と期待しました」
「……」
瞬は、本当に それを期待していたらしい。
正直に そんなことを言わないでほしかったと、なぜか 氷河は落胆してしまったのである。

自分の方が綺麗で有能なのだから、自分を売り込めばいいのにと、氷河は胸中で思ったのだが、瞬自身に そのつもりはないらしい。
氷河は、安堵と もどかしさが微妙な比率で入り混じった、極めて複雑な気持ちになった。

「おまえ、かなり馬鹿だな」
少々 皮肉の気味を含んで、瞬に言ってみる。
自分の美しさを自覚していない瞬は、困惑した目を 氷河に向けてきた。
「僕、他にも何かミスをしましたか」
「いや」
瞬が 自分の雇用主を誘惑してくれないのを残念に思う一方で、もし瞬が誘惑めいたことをしてくれたなら、ここを先途とばかりに派手に振ってやるのに――と思う。
そんな矛盾した思いを抱いている自分に、氷河は呆れた。

「おまえの出過ぎた真似は許してやるから、代わりに、これからは俺を敬称抜きで『氷河』と呼べ。俺は、自分の努力や才能で おまえの雇用主の立場を手に入れたわけじゃない。『氷河様』なんて呼ばれると、自分が下品で傲慢な成り上がり者になったような気がして、嫌な気分になる。おまえだって、俺を尊敬して“様”づけしているわけじゃないだろう」
「そんなことは……」
『ありません』と 白々しく断言してしまえない瞬は 正直な人間である。
正直でなかったとしても、瞬が 嘘をつき慣れていない人間なのは 確かな事実だろう。
気まずそうに口ごもる瞬に、氷河は悪感情は抱かなかった。

ともあれ、そのことがあってから、瞬は 氷河を“綺麗で人柄のいい”女性に引き会わせようとするのをやめてくれた。
そして 氷河は、種々のパーティや会合に瞬を同伴することを始めたのである。
そもそも 城戸沙織は、瞬の並外れた容姿が女よけになると考えて、瞬を氷河に推薦してきたのだ(と、氷河は察していた)。
せっかくの美貌を有効活用しないのは 宝の持ち腐れというものだろう。
瞬に提示される翌日のスケジュールに パーティや会合の予定を見付けると、氷河は、
「ふさわしい恰好で」
と、瞬に指示するようになった。

つい この間までシベリアの平原で 普段着と よそ行きの別もない生活をしていた男が、どの口で そんなことを言うのかと思わないでもなかったのだが、どれほど才能があり、どれほどの富を有していても、あるいは 既に名誉と権威を得ている人間でも、ふさわしい服装をしていない人間は、この国では軽蔑されるという現実を、氷河は知ってしまっていたのだ。
瞬が 氷河の期待通りの恰好で来てくれたことは、一度もなかったが。
“ふさわしい恰好”を要求された瞬が身に着けてくるものは、常に濃い色のスーツだった。

瞬は、氷河のセクレタリーとして同伴するのだからと考えて、そういう恰好なのかもしれない。
可愛らしい顔立ちを侮られないために、あえて堅苦しいスーツを選んでいるのかもしれない。
マニッシュというよりボーイッシュで、可愛いことは可愛いのだが、しかし、それは どう考えても 美人秘書に“ふさわしい恰好”ではない。
「なんでまたスーツなんだ」
氷河は不満たらたらで 呟くことになったのだが、どういうわけか、瞬の その恰好は 多方面で 異様に受けたのである。

歌舞伎の女形に白拍子。
異性装を禁忌とするキリスト教が幅を利かせていない日本の文化という土壌のせいもあるのだろうが、要するに、瞬を伴って出掛けていくと、氷河はどこでも、
「まあ、倒錯的で 妖しい二人連れ」
という歓迎を受けたのだ。

どういう恰好をしていても、大抵の女は 瞬には敵わないと思うらしく、二人で出掛けるようになってから、資産家夫人の座を狙う輩は 氷河の周囲に擦り寄ってこなくなった。
その代わりに、氷河は パーティやイベントの主催者から、
「二人揃って いらしてくださると、女性客が喜ぶので、ぜひ お揃いで」
と求められることが多くなったのである。
本来の目的は果たされているので、文句を言う筋合いはないのだが、
「日本人はよくわからん」
というのが、氷河の本音だった。

だが、氷河は、決して悪い気はしなかったのである。
若く美しい美人秘書や愛人を同伴する 助平ジジイという人種を、氷河は これまで軽蔑していたのだが、彼等の気持ちが 少しわかったような気がした。
結果的に 自分の醜さを誇示することになってしまっているだけで、彼等は ただ自分の持ち物を自慢したいだけなのだ。
その所有権を主張したいだけ。
同時に それは彼等自身の権力や財力を誇示することにもなる。
氷河が そういった輩と異なる点は、イベントの主催者やゲストに“二人一緒”を喜ばれる点。
瞬と二人で1セットとして 歓迎され、称賛されることだった。


瞬をセクレタリーとして雇い入れてから 3ヶ月後。
以前 瞬が話を持ってきた、北欧伝統工芸保護活動グループのメンバーたちのデザインが、レッド・ドット・デザイン賞、IFデザインアワード、インターナショナル・デザイン・エクセレンス賞と、立て続けに国際的なデザインコンクールで賞を取って注目を浴び始め、グループと専属販売契約を結んでいる会社の株が高騰して高止まり、氷河の資産(の評価額)は数億増えた。
それから まもなく、これまた瞬の紹介で多額の寄付をしたNPO法人から、冷暖房設備が改修された養護施設の子供たちや、諦めていた進学が叶った生徒たちによる お礼のビデオレターが届き、こちらは もちろん一文の得にもならないのだが、大いに氷河の心を満たしてくれた。

瞬が設置を許可してくれたので購入したホームシアターセットの大画面に映る子供たちの笑顔を眺めながら、氷河は ふっと呟くことになったのである。
「カミュは なぜ、俺に馬鹿げた額の遺産を残したんだろう」
氷河より嬉しそうに 子供たちの笑顔に見入っていた瞬は、氷河に やわらかい微笑を返してきた。
「氷河が それを有効活用してくれると考えたからでしょう。普通とは違う方法で」
「俺は期待に応えられていると思うか」
「このビデオレターを見て、『いいえ』と言える人間がいるわけがありません」
「……」

“いるわけがある”ことを、氷河は知っていた。
見返りの期待できない寄付や献金を、有意義かもしれないが 有益ではないと考える人間は、この世にいくらでもいる。
1円の得にもならないことに、多額の資金を流すなど、金をどぶに捨てるようなものだと考える人間は、確かに存在するのだ。
「このビデオレターを見て、『いいえ』と言える人間がいるわけがありません」と、逡巡なく言える瞬は、合理的な経済人ではなく 善良な人道主義者なのだと思う。
シベリアの雪原で獣を狩って暮らしていた頃より 人間社会というものを知って 賢くなっていた氷河は、以前より 賢くなっていたからこそ、瞬の価値を正しく把握できるようになっていた。






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