瞬は無欲で 誠実で有能。
心根も優しく、助言者としても最良。
善良ではあるが何も為さない夢想家ではなく、無能力者でもなく、物心両面で雇い主を満足させてくれる、得難い人材。
しかも、並外れて美しい。
グラード財団総帥の人を見る目は さすがに超一流だと、氷河は感心しないわけにはいかなかった。
城戸沙織が得意げに笑う様が容易に想像できるのが癪だったが、いずれ 彼女には ちゃんと礼を言わなければなるまいと、氷河は思っていたのである。

そして、瞬に求婚するのに 城戸沙織の許可は必要だろうかと、氷河は そんなことを考え始めていたのである。
瞬は両親はいないと言っていたし、係累がない者同士が結びつくのに 大きな障害はないだろう。
瞬なら、馬鹿げた額のカミュの遺産を シベリア生まれの野生児より はるかに有益に活用してくれるに違いない――と。

そんな時。
氷河は、屋敷のエントランス脇で 人目をはばかるように、瞬が見知らぬ男と会っているのを見掛けたのだった。

「こんなところで立ち話するより――中に入ってください。氷河に紹介します」
「いらん。俺が、金の使い方も知らないシベリア産のクマに会って どうする。おまえが一人で 万事 うまく運べ」
「ホッキョクグマは強くて 美しくて――絶滅を危惧されている稀少な動物ですよ」
いったい それは シベリア産のクマを褒めているのか、貶めているのか。
少なくとも、瞬と共にいる男は、それを褒め言葉と受け取ったらしく、
「ふん」
と、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「で? うまくいっているのか」
「と思います」
「おまえも面倒な仕事を引き受けたものだ」
「沙織さんが僕を見込んで任せてくれたんですから」
「おまえなら、どんな男の心も とかすだろう」
「それはどうか」
「とにかく、適当に頑張れ。300億の札束が服を着て歩いていると思えば、多少 腹の立つことがあっても我慢できるだろう」
「クマの次は札束ですか」

男の物言いに 呆れた口調になったが、瞬は その男を咎めようとはしなかった。
『300億の札束が服を着て歩いていると思え』
瞬に そんな発破のかけ方をする男は何者で、その目的は何なのか。
シベリアの雪原で獣を狩って暮らしていた頃より 人間社会というものを知って 賢くなっていた氷河に、それは大した謎ではなかった。

レザーのつなぎに黒のサングラス。
どう見ても堅気の人間ではない。
住む世界が違っているように見えるのだが、瞬とはかなり親密そうである。
何より、『300億の札束が服を着て歩いていると思えば』。
男の言葉に瞬が何も反論しないということは、二人の目的が同じものだということなのだろう。

男の手が 瞬の髪を撫でたこと、その手を瞬が払いのけなかったことに、氷河はかっとなった。
不快のあまり、心臓の鼓動が異様に速くなる。
シベリアの雪原で獣を狩って暮らしていた頃より 人間社会というものを知って 賢くなっていたつもりだったのに、シベリア産のクマは 所詮は動物と大差ない生き物だったらしい。
それは、人間社会で長く生き、生き延び続けてきた“人間”には、容易に操ることのできる頓馬な道化でしかなかったらしい。
瞬は、無欲で清純な人間の振りをして、“服を着て歩いている300億の札束”の心を とろかし、服の中身を手に入れるつもりだったのだ。
“服を着て歩いている300億の札束”を手玉に取ろうとしていたらしい二人より、そんな二人に騙されかけていた自分の愚かさにこそ、氷河は腹が立った。






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