「明日から、来なくていい。今日付けで、おまえを解雇する」
いかにも その筋の者としか思えない男は、シベリア産のクマに紹介されることは拒み通したらしい。
来客などなかったような顔をして、氷河の許に出納帳を持ってきた瞬に、氷河は 懸命に抑えた声で 解雇を宣言した。
「氷河……? それは どういう意味ですか? なぜ――」
突然の解雇通達に驚き、瞬が その瞳を見開く。
『おまえなら、どんな男の心も とろかすだろう』
この澄んだ瞳を信じたばかりに。
氷河の喉に、苦いものが 込み上げてきた。

「ラドネジの聖セルゲイ、サロフの聖セラフィムの例を挙げるまでもなく、ロシアには俗世を捨てて清貧の生活に入る伝統がある。日本でも 引きこもりという文化が認められているそうじゃないか。カミュの真意を知りたいなんて 殊勝なことを考えて、人と交わろうとした俺が馬鹿だったんだ」
そんな馬鹿な考えを抱かなければ、人間というものに失望することもなかったのに。
一度 人間不信に陥りかけた上で 瞬を信じ、これが“人間”というものへの二度目の失望。
氷河が その心に負った傷は深かった。

「雇用主が 雇用主の都合で プライベート・セクレタリーを解雇するのに、理由が必要か?」
必要なのだとしても、その理由を口にしたくない。
すぐさま この屋敷から退去するように、氷河は瞬に命じた。






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