城戸沙織が氷河の許を訪ねてきたのは、氷河が瞬に解雇を通達した翌日のことだった。
アポイントメントなしの突然の訪問。
会いたくないので 帰ってもらおうと思ったのだが、招かれざる客を 波風立てずに追い返してくれる瞬を解雇したことを思い出し、氷河は 不本意ながら、彼女を屋敷の内に招じ入れた。
瞬の百分の一も気が利かず、その上 瞬の指示で動くことに慣れてしまっているメイドが、自信がなさそうに 客間にお茶を運んでくる。
一応 玉露のようだったが、瞬なら紅茶を運ばせていただろう。
どちらにしても、城戸沙織は 出されたお茶に見向きもしなかったが。

「瞬が解雇されたと聞きました。瞬が何か不都合なことをしたのですか?」
世界に冠たるグラード財団の総帥。
彼女が数百億の はした金のために悪事に加担したとは考えにくい。
彼女は、氷河の一方的な解雇通達を不当と考えているようだったが、それは つまり、彼女も瞬の正体を知らなかったということ。
彼女も、瞬と瞬の男に騙され 利用された口なのだろうと、氷河は判断した。

「あなたが推薦してくれたセクレタリーは、よからぬ筋とつながっていたんだ。あなたも 瞬のあの清純そうな顔に騙されていたんだろうが」
瞬は 見るからに胡散臭い男と組み、金目当てで、シベリアの野生児を色仕掛けで籠絡しようとしていたのだとは言いたくなくて、氷河は 曖昧に 瞬の解雇の事情を沙織に告げた。
沙織が、絶滅危惧種のホッキョクグマどころか、深海の珍獣センジュナマコを見るような目を、氷河に向けてくる。
つまり、目や耳が退化して 物が見えず、音を聞くこともできない動物を見るような目を。
瞬の言動をちゃんと見聞きし 判断する能力を欠いているから、氷河は そんなことを言い出したのだと、彼女は信じているようだった。

「瞬に限って、そんなことはありません」
城戸沙織が きっぱりと断言する。
これまで一度も シベリア生まれの野生児を侮り蔑む態度を見せたことのなかった沙織が、初めて見せる“普通でない人間”に対する態度。
そういう目で自分を見る人間に出会うたび、その人間の侮りを感じ取って 氷河は不快になってきたのだが、氷河は 今日は そんな気持ちにはならなかった。
沙織は 傲慢なわけではない。
判断を誤っているわけでもない。
彼女は 知らないだけなのだ。

「瞬が 怪しい風体の男と密談しているところを見たんだ。そいつは、俺を札束と思って うまくやれと、そんなことを瞬に言っていた。瞬は俺の財産目当てで――」
「そんなはずはありません。金目当てだなんて。瞬は私の弟のようなものです。お金なんて、瞬が欲しいと言ったなら、私がいくらでも出します」
「……なに?」

(氷河より富裕な)グラード財団総帥の弟(のようなもの)。
沙織の言葉は、氷河には意想外のものだった。
氷河は、瞬を、美貌も才能もあるが、家も家族もない孤児だと思っていた。
だが、沙織の言葉が事実なのだとしたら――瞬が(氷河より富裕な)グラード財団総帥の弟(のようなもの)なのだとしたら――そんな人間が、金目当てでシベリアから来た野生児に近付くことは極めて考えにくいことだった。
金が欲しいなら、グラード財団総帥に 頼み込んだ方が よほど 手っ取り早い。
とすれば、瞬がシベリア生まれの野生児の財産目当てで 氷河の許にやってきたというのは、どう考えても野生児の誤解だった。
が、そんなことより。

「弟ーっ !? 」
“弟”というのは、普通、年少の男子を指していう言葉である。
沙織は、瞬を男子だと言っていた。
あの 華奢で可憐で清楚な花のような人間を。
それは、ヘラクレスや イスラエルのサムソンや スサノオノミコトが可憐な美少女だったというより無謀な主張なのではないか。
瞬が男子だというのなら、ガラパゴスウミスグアナも絶世の美女で通るだろう。
先日 購入したホームシアターセットについてきた動物ドキュメンタリーのディスクの映像を思い出して、氷河は そんなことを思った。

しかし、城戸沙織は 冗談を言っているようには見えない。
彼女は 全く笑っていなかった。
つまり、シベリアの野生児は 本当に目が見えていなかったのだ――瞬は 現に男子であるらしい。
となれば 当然、瞬はシベリアの野生児を誘惑して その妻の座に収まるつもりではなかったということになる。
だが、そうなのであれば、あの 風体も言動も怪しい男は いったい何者なのか――。
「その怪しい風体の男というのは……」
氷河の疑念を察したように そう呟いて、沙織が一瞬、頭痛をこらえるポーズをとる。
氷河は、沙織の その呟きで、瞬が男子だからといって、瞬への疑いが すべて晴れたわけではないのだと思い直した。

「そうだ。その いかにも怪しい風体の男が、瞬は どんな男の心もとろかすと言っていたんだ。俺を 服を着た札束だと思えば、多少のことは我慢できるだろう――と」
「“とろかす”ではなく“とかす”の聞き間違いではないの? 瞬は、春のように優しく温かい心を持った子でしょう?」
「……」
そう言われてみれば、『とろかす』ではなく『とかす』だったような気がする。
氷河は 実は、二人のやりとりを よく憶えていなかった。
氷河は とにかく、瞬が自分以外の男と親密そうにしていることに腹が立ち、あの怪しい風体の男を悪党と決めつけていたのだ。
服装で 人間の人となりを判断する日本の文化に従って。






【next】