瞬がいなくなったので、その日、氷河のスケジュールはオールフリーになっていた。
氷河の そんなスケジュールを 城戸沙織が承知していたとは思えないが、彼女は 予定のない氷河を彼女の家に招待してくれた。
実際は、氷河は問答無用で 彼女の家に引っ張られていったのだが、それが丁重な招待であっても 暴力的な拉致であっても、氷河は彼女の意に沿っていただろう。

城戸沙織の私邸は、氷河が購入した屋敷より 規模で2倍、年季で5倍、装飾等で10倍 凝った、英国ジャコビアン様式の大邸宅だった。
そして、沙織の言葉通り、グラード財団総帥の弟のようなもの――瞬――は 本当にそこにいたのである。
午後のテラスに籐椅子を出して、瞬はそこで ぼんやりと冬枯れの庭を眺めていた。
陽射しがあるとはいえ、12月。
氷河には春のようなものだったが、日本人には 十分に“寒い”と感じられる気温である。
だが、瞬の周囲は暖かだった。
奇妙なことに、比喩ではなく、本当に。
陽炎が立ち、空気が揺らめいているのが はっきりと見てとれる。

瞬の、寂しげではあったが くつろいでいる様は、どう見ても この屋敷の家人のもので、使用人のそれではない。
グラード財団総帥の言葉は、やはり嘘ではなかったらしい。
だとしたら、瞬は この邸宅から、氷河の屋敷まで 毎日 通勤(?)していたのだろうか。
その必要はない――生活の糧を得るために 我儘で気難しい野生児に使われる必要はないというのに。

「瞬」
沙織が瞬の名を呼ぶ。
期待に沿えなかった沙織の顔を見るのが つらかったのか――瞬は、後ろを振り返らず、寒い庭に視線を投じたまま、力無い声で 沙織に訴えてきた。

「僕は――氷河の心を温めて、氷河を幸せにしてあげたかったんです……」
「ええ、そうね」
「でも、なぜか わからないけど、僕は氷河の心を傷付けてしまったんだと思います。氷河は、とても 怒っていて……怒っているのに、瞳は悲しそうで……。僕は、氷河の幸せって何なんだろうって、一生懸命 考えたつもりだったんですけど、氷河には それが傲慢なことに感じられたのかもしれません。沙織さんの ご期待に沿えなくて、すみませんでした……」
声に涙が載っているのがわかる。
氷河は胸が詰まった。

シベリアで培ってきた野生の勘が、あれほど『これは決して傷付けてはならない、清らかな動物だ』と訴えてきていたのに。
シベリアの雪原で獣を狩って暮らしていた頃より 人間社会というものを知って 賢くなっていたつもりの目が、その澄んだ瞳に無条件降伏していたのに。
実際に 瞬は氷河を物心両面で満たし 幸福を感じさせてくれていたのに。
なぜ 自分は瞬を信じ切ることができなかったのか。
今では その理由は わかっていたのだが――嫉妬と、“怪しい風体の男”の怪しい風体のせいだと わかっていたのだが――それでも 氷河は 自分の愚かさに得心できないでいた。

「その氷河なのだけれど……彼、ちょっと誤解をしていたようなの」
沙織が、彼女の横に立つ氷河に一瞥をくれてから、言いにくそうに口を開く。
沙織に事情を説明されてしまいたくなかった氷河は、慌てて 大股で瞬の側に歩み寄り、その前に回り込んだ。
そうして 氷河は、生まれて この方 誰にも下げたことのない頭を下げ、瞬に向かって 謝罪と弁解を がなり立てたのである。
「瞬、すまんっ! 俺は、おまえを女だと思い込んでいた。おまえにプロポーズしようとしていた時に、おまえが怪しい風体の男と親しげに話しているのを見て 頭に血がのぼって――俺は、おまえが あの男と組んで、俺をたらし込んで、カミュの遺産を手に入れようとしているんだと邪推してしまったんだ。すまん! 本当に すまなかった!」

冬枯れの庭のように生気を失っていた瞬の心と身体は、突然 夏の嵐に見舞われた木や花のように 為す術もなく、しばし 呆然としていた――そんなふうに 氷河には見えた。
なぜ ここに自分の元雇用主がいるのか、氷河は何を言っているのか、彼は なぜ こんなに取り乱しているのか、まるで意味がわからない――というように。
氷河の大声での謝罪と弁解の内容を整理し、理解し、改めて あっけに取られる。

「怪しい風体だなんて、ひどい……。あれは僕の兄です。氷河を たらし込むも何も、僕は男子です」
事実を言っただけなのに『ひどい』とはひどい――と思ったが、今の氷河は 瞬に反論できる立場になかった。
怪しい風体の男が 怪しいか怪しくないのかの判断は 後日 再考することにして、氷河は謝罪を重ねた。
とにかく 今は、瞬に謝らなければならないのだ。
瞬の心を傷付けたままにしておくことはできない。
「済まなかった。おまえが可愛すぎて、誤解していた。おまえを ちゃんと見ていれば、おまえが そんな人間でないことはわかるはずなのに、わかっているつもりだったのに――。貧乏人が 身の丈に合わない大金を持つと、ろくなことにならない。金があるせいで卑屈になり、自分に自信が持てなくなって、近付いてくる人間が皆 泥棒に見えてくる」

「氷河……」
「すまん」
氷河は、心から反省していた。
心身共に しおれ、項垂れていた。
許してもらえなかったら 本気で泣き出してしまいそうだと思い、同時に、心のどこかで、瞬なら きっと許してくれると思っている自分に腹が立つ。
瞬が気持ちを沈ませているより、馬鹿な誤解をした男に憤ってくれていた方がいいと思う。
そして、いったい瞬は、女子に誤認されたことと 金目当てと思われたことの どちらの方に より一層傷付いているのかの判断がつかない。
氷河に わかっているのは とにかく、自分が馬鹿だったということだけだった。

氷河が混乱しているように、瞬もまた、『すまん』『すまなかった』を繰り返す男に 困惑しているようだった。
だが、瞬は、“許す”と“許さない”の間で迷っているわけではなく――瞬は 全く別ことを考えて、すぐに氷河に『許す』と言えずにいた――らしかった。
そして、結局 瞬は、『許す』も『許さない』も言わずに済ませる道を選んだらしい。
それは もしかしたら、氷河の犯した過ちをなかったことにしようとする、瞬の優しさだったのかもしれない。
おそらく そうだったろう。
しかし、そうするために 瞬が持ち出した話は、シベリアの野生も 日本の文化も超越した、あまりに突拍子のないものだったのである。






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