星矢と紫龍が氷河たちに追いついたのは、十二宮最後の宮である双魚宮だった。
主のいなくなった宮で、薔薇だけが以前のように咲き乱れている。
この宮に咲く薔薇に季節はないようだった。
いつ来ても、双魚宮には 薔薇の花の香りが満ちている。
そして、実は、星矢は その香りが あまり好きではなかったのである。
薔薇の花の香りには 鎮静効果があると言われているらしいが、絶対に それは嘘だと、星矢は思っていた。
現に今、星矢は、むせかえるような薔薇の香りの中で、明快に苛立っていた。

「――って、ミロが言ってたぞ。馬鹿すぎて、俺、さすがに ちょっと いらいらするんだけど」
「星矢。ミロに 変なことは……」
香りが持つ力というものは、人によって作用の仕方が違うのか、それとも 瞬が平静なのは薔薇の花の香りではなく 仲間の怒りのせいなのか。
いずれにしても、星矢を見詰める瞬の眼差しは、温順というより気弱げ、穏和というより心配そうだった。
瞬の態度が穏やかで静かであればあるほど、星矢は逆に苛立ちが増しているようだったが。

「何も言ってねーよ。言えるわけないだろ。あんたは瞬の先生の仇で、あんたのせいで、瞬が どれだけ悲しんだか わかってんのか! なんて。一応、今は 同じ目的のために戦う仲間だし……」
守るべき一線は しっかり守ってくれている星矢に安心したのか、瞬は 初めて、その目許に微笑のかけらを浮かべた。
そして、すぐに その瞼を伏せる。
「僕の先生の命を奪ったのはミロじゃないよ」
「そう、黄金聖闘士 二人がかりで倒してくれたんだよな。ご立派なことに」
「ミロは……教皇の命令に従っただけだから」
「だから、あいつには 自分が悪事を働いたって意識がないんだよな。アフロディーテと違って、悪意ゼロ、罪悪感もゼロ。当然、後悔もしないし、反省もしない。それって最悪じゃん。罪の意識がないと、おまえだって、あいつを許すことができない」
「許すも何も……僕には、そんな権利はないよ」

本来は、師を殺された被害者である瞬が立腹し、第三者である星矢が なだめ役にまわるところなのに、なぜか二人の立場は逆転し、瞬が 仲間のために激昂している星矢のなだめ役にまわっている。
「しかし、それでは おまえが つらいだろう」
星矢とは違う やり方で、紫龍も瞬の心を気遣っているようだった。
瞬が、小さく首を横に振る。
「いいんだよ。そんなことは」
「でもさー」
師を奪われた当人が『いい』と言っているのに――であればこそ、なおさら――星矢は、気が治まらないらしい。
瞬は、その視線を、仲間たちの上から 咲き乱れる薔薇たちの方へ移動させた。
アフロディーテが丹精していた薔薇たちの姿を見詰めたまま、瞬が 静かに語り始める。

「憎みかけていたんだよ。僕だって、ミロを。アフロディーテは その命で 自分の罪を贖ったのに、僕の先生の命を奪う片棒を担いでおいて、しゃあしゃあと生き延びて――って。彼が――自分が何をしたのか 自覚していないことに憤って、僕の先生は死んだのに、彼が生きていることを理不尽だと思った。でも、僕はミロの謝罪の代わりのものを手に入れた。多分、ミロが あんなふうでいるおかげで」
「代わりのものって何だよ」
『憎みかけていた』――それは、瞬の中では既に過去の出来事になってしまっているのだろう。
それが わかっているから――それを過去形で語れるようになるまでの瞬の苦渋を知っているから――星矢の苛立ちは治まらないのだ。
そして、だから、そんな星矢を見る瞬の瞳には、感謝の念と温かさが たたえられている――。

「僕の先生の命を奪う片棒を担いだ自覚がない。罪を犯したという意識もない。そんなミロを憎んでしまいそうになって、でも、アテナをアテナと認めた黄金聖闘士を憎むわけにはいかなくて、僕は氷河に救いを求めた。憎んじゃいけない人を憎んでしまいそうな僕の心を、氷河に凍らせてもらおうと思ったんだ。でも、氷河は僕を凍らせてくれなくて――逆に温めて、氷河は僕の心を綺麗にしてくれた。憎むことより 愛することの方が気持ちいいって 教えてくれた。ミロがあんなふうでなかったら、僕は 氷河の温かさに気付かなかったかもしれない。だから――」
「だから、ミロは おまえらの恋の恩人みたいなもので、傷付けたくないってんだろ。はいはい、わかってます」
少しも わかってくれていないような星矢の ふてくさった様子に、瞬が細い溜め息を洩らす。

「水が凍り始める温度を 氷点って言う。僕の心は何度も氷点に近付いて――でも、僕の心が そこに近付くと、氷河が そのたびに僕の心を温めてくれた。人間が持つ感情の中で 最も強いものは憎しみだとか 怒りだとか言う人がいるけど、そう言う人たちの気持ちが 僕にはわかるよ。そういう感情って、人が生きていくのに必要なんだよ。でないと、人は 悲しみのせいで死んでしまう。僕は生存欲が強すぎるんだろうね。だから、僕の心は 何度も氷点に近付いて、何度も 自分が生き続けるために 人を憎んでしまおうっていう気持ちになって――。だけど、そのたび 氷河は僕の心を温めてくれた。何度も――何度もだよ。僕は氷河に何のお返しもできないのに」

春の野に咲く小さな花のような姿。
争いを嫌い、人を傷付けることを嫌う、優しい心を持つアンドロメダ座の聖闘士。
だが、そんな瞬が、その胸の内に 誰より激しいものを秘めていることを、瞬の仲間たちは知っていた。
『瞬を本気で怒らせてはならない』は、彼等の不文律である。
そんな彼等でも、瞬が本気で 人を憎んだら どうなるのかということは知らない。
できれば一生 知りたくないと、彼等は思って――願っていた。
たった今も、願っている。
幸いなことに、彼等は、知りたくないことを知らずに済みそうだった。
瞬の側に 氷河がいてくれさえすれば。

氷点に近付いた瞬を 幾度も見てきた氷河が、わざと おどけた所作で 肩をすくめる。
「お返しも何も――おまえは、天秤宮で俺を助けてくれたことを忘れたのか」
「あれは……自分の目の前に 死んでしまいそうな人がいたら、誰もが そうすることをしただけだよ。誰だって助けようとするでしょう? 自分の手が届くところで、人が 命の危険に さらされていたら。しかも、それが自分の仲間なんだから」
「死を恐れ、死の前で 身体がすくんでしまう者もいる。むしろ、世の中には、そういう人間の方が多い。目の前に 死んでしまいそうな人間がいたら、誰もが その人間を助けようとすると気軽に断言してしまうおまえは――」

氷河が ふいに、彼の言葉を途切らせる。
それが本当に唐突だったので、瞬は怪訝に思ったらしい。
「氷河?」
仲間の名を呼んで、瞬が首をかしげる。
そんな瞬に、氷河は、苦笑というには 薄すぎる笑みで答えた。
「あ、いや。目の前に 死んでしまいそうな人間がいたら、誰もが その人間を助けようとすると気軽に断言できるおまえは、優しいのか、善良なのか、清らかなのか、それとも お人好しなのか、いっそ大愚と言うべきか――どうなんだろうと思ってな。言うべきことを 考えてから発言しない この癖をどうにかした方がいいな、俺は」
述語に迷っていたと告白した氷河に、
「氷河と同じで いいよ」
と、瞬が応じる。
その返事を聞いて、氷河は 薄い苦笑だったものを 深い微笑に変えた。

「キリスト教は、人は誰もが原罪を負った罪人(つみびと)だと言う。あれは、そう思わせることで 民衆に神に救いを求めさせようとする、布教のための詭弁だろうが、その点、アテナは そんな せこいことをしない。アテナは、人間には 罪ではなく愛があると言う。アテナの方が正しい。おまえは特に 愛にあふれているんだ」
それが氷河の辿り着いた“述語”であるらしい。
「のろけかよ、つまり」
星矢が 呆れた顔と声でぼやいたところを見ると、その のろけのおかげで 星矢の苛立ちは霧散したようだった。
沸点に達しかけていた頭が常温に戻ったことで、自らを冷静に顧みることができるようになったらしい星矢が、今度は別件で騒ぎ始める。

「わーっ! シャカんとこに、ムウから預かったリスト、忘れてきたーっ!」
「ムウから預かったリストって、僕たちや黄金聖闘士たちの聖衣の修繕に足りないもののリスト?」
「そう、その足りないものリストと、材料調達計画のスケジュール表!」
「それを報告して、入手のための指示を受けに行くのに、肝心の報告書を忘れてどうするんだ」
考えてから発言するタイプの瞬が 現状の確認を行ない、同じく(例外はあるにしても、基本的に)考えてから発言するタイプの紫龍が、その問題点を指摘する。
考えずに発言するタイプの氷河は、
「すぐに 引き返して取ってこい」
と、結論だけを口にした。
「シャカは慈悲深い男だから、アテナに提出する資料を消滅させたりはしないだろうが、六道のどこかに飛ばしてしまうことくらいはしかねない」
本当に何も考えずに発言しているのか、皮肉や脅しは その限りではないのか。
いずれにしても、“結論”に続いて氷河が口にした忠告(?)は極めて効果的で、氷河の忠告を聞くなり、星矢は、亜光速レベルの素早さで、双魚宮を飛び出した。

そして 星矢は、そこに双魚宮より4つ前の宮の主の姿を見い出すことになったのである。






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