氷河は 突然、はっと我にかえった。 清楚で可憐な花の所作に心を奪われて――そんなことをしている場合ではないというのに――氷河は 意識をどこかに飛ばしていたらしい。 それが瞬に奇異の念を抱かせるほど長い時間ではなかったことを、氷河は胸中で願った。 その時が過ぎてから そんなことを願っても無意味だということは わかっていたのだが。 幸い、氷河の願いは叶っていたらしい。 氷河が瞬に見とれて自失していたのは、瞬に阿呆と思われるほど長い時間ではなかったようだった。 そのことに安堵して――氷河は瞬の呟きの内容の意味するところを考え始めたのである。 アテナが許したのかもしれない――と、瞬は呟いた。 それは 氷河に希望を抱かせる呟きだった。 「あなたは、邪悪な目的を持って ここに来たのではないんですね」 アテナが 外の世界の人間に 聖域に入ることを許すとは そういうことなのだろう。 瞬に問われ、氷河は、 「そのつもりだ」 と答えた。 瞬は その返答を偽りないものと認めてくれたらしい。 異邦人への警戒を解いたように親しげな声で、瞬は氷河に名を問うてきた。 「あなたのお名前は」 「氷河」 女神アテナの支配する楽園に咲く可憐な花に 自分の名を覚えてもらえるとは。 氷河は、既に楽園にいるというのに、更に 天に昇る気持ちで、瞬に自分の名を知らせたのである。 その誰何が、まさか 自分を この楽園から追い返すためのものだとは考えもせずに。 だが、そうだったのだ。 氷河の名を聞いた瞬は、その名を使って、氷河を楽園から追放しようとした。 「では、氷河。すぐに お母様のところに戻りなさい。そんなに愛している お母様なら、少しでも一緒にいてあげた方がいい。氷河の お母様の命を永らえるために 僕やアテナにできることはありません。外の世界で 癒し救うことのできない命は、僕たちにも癒すことはできないんです」 優しげな眼差しをして、瞬は何という冷酷な言葉を吐くことか。 瞬の その言葉によって氷河が受けた衝撃は小さなものではなかった。 だが、氷河は、その衝撃に 大人しく打ちのめされるわけにはいかなかったのである。 氷河は決死の形相で、小さな花の苛烈な攻撃に抵抗した。 「そんなはずはない! ここは、不死の女神アテナが治める楽園だろう! ここには 人間に永遠の命を与えるものがあるはずだ。永遠の命の泉、神々を不死にしている食べ物と飲み物。ここには それがあると聞いたから、俺は……!」 だから、氷河は ここに来たのだ。 1秒でも長く母に生きていてほしいから、1秒でも長く共にいたい母を人に預けて。 だというのに。 「ごめんなさい。そんなものは ここにはありません」 瞬の答えは にべもなかった。 瞬の その声には、優しさと同情が込められていたのに――それはわかっていたのに、 「簡単に言うな……!」 氷河は、呻くように、捻くれた答えを 瞬に投げつけることしかできなかったのである。 瞬は つらそうに――作り物の表情ではなく、本当に つらそうな目をして、氷河を諭してきた。 「もし そんなものがあったとして――氷河は 氷河のお母様に永遠に生きていてほしいんですか? 人間にとって 永遠の命が どれほどの重荷なのか、氷河は考えたことがある? もし ここで永遠の命を与えられたら――氷河の お母様は 氷河の死後も生き続けることになる。そんなことになったら、永遠の命を与えられた氷河の お母様は、永遠の孤独に苛まれることになるでしょう。氷河の お母様は それを望んでいるの?」 「……」 母は永遠の命など望んではいないだろう。 もちろん、死にたいわけでもないだろうが、彼女が 永遠の命を望んでいるとは、氷河には思うことができなかった。 彼女に死んでほしくないと 強く望んでいるのは、母ではなく氷河自身だったのだ。 「それとも、氷河も お母様と共に 永遠に生きていたいんですか? 二人だけで、永遠に人間と自然の摂理から外れて生き続けるの? それは、人並みの幸福に 永遠の別れを告げることと同義です。人の心を持つ者に、永遠の命は つらく 重すぎるものだから」 「……」 瞬の言うことは正しいのだろう。 だが、それでも。 それでも、氷河は 母に死んでほしくなかったのだ。 「俺の母は――俺を産んだせいで、苦労ばかりしてきた。俺には父がいない。母は おそらく、望んで俺を産んだんじゃない。だが、母は そんな俺を愛してくれた。憎んでも当然だったかもしれない俺を、慈しんで育ててくれた。そして、今、俺のせいで死に瀕している」 耐えられないのだ。そんなことは。 彼女の人生が、彼女の息子のせいで不幸なものになることは。 不幸なまま、彼女が その生を終えることは。 「永遠の命とは言わない。せめて、俺が母から与えられたのと同じだけのものを返し終えてから――不幸続きだった母の人生の 不幸と幸福が逆転してから――」 息子の力によって幸福になってから、幸福な人間として、彼女に その生を終えてほしい。 それが 氷河の願いだった。 瞬が優しく 悲しげに、首を左右に振る。 「それは不可能です。母の愛は強く深いもの。決して報い切れるものではありません。それとも 氷河は、自分になら報いることができると うぬぼれているの? 氷河のお母様が 氷河に注いでくれた愛は その程度のものだと思っているの?」 「……」 瞬に問われたことに、氷河は『そうだ』と答えることはできなかった。 瞬の言う通り、それは不可能なことだと思うから。 「すぐに お母様の許に帰り、残された時間を 一緒にいてあげなさい。あなたのお母様の幸せは、死なないことではなく、限りある命を あなたと共にいること。あなたが幸福でいることだと思います」 そうなのだろう。 母の願いは それだけだろう。 だが、自分の手で幸福にしたいのだ。 なぜ その心がわからないのかと、氷河は苛立った。 瞬を優しい心の持ち主だと思うから、瞬の冷酷なまでの素っ気なさに 一層 腹が立って仕様がない。 「おまえは、自分の母を愛していないのか! だから、そんな冷酷なことを言えるのか!」 行く手を遮られて 気が立った狼のように、氷河は 瞬に噛みついていった。 小さな白いウサギは、そんな氷河の前から逃げ出そうとしない。 「僕は母を知りません。僕の母は、僕を産んで まもなく亡くなったんです」 「……」 純白の非力で小さなウサギ。 だが、小さなウサギの心が 凶暴なオオカミの心より 非力で小さいとは限らない。 「でも、僕は 母を愛していますし、母が僕をこの世界に送り出してくれたことに感謝していますよ。どれほどの時間をかけても、その愛に報いることができるとは思えない」 温かく穏やかな声で、そう告げる瞬。 氷河は、その牙と爪を引っ込めるしかなかった。 「すまん……」 自分が失いかけているものだけに気をとられ、それを 最初から与えられていない者がいる可能性に、氷河は 考えが至っていなかったのだ。 恵まれている者、恵まれていない者。 与えられている者、与えられなかった者。 失う者、持ち続ける者。 人は――人の人生は様々で、不公平なものなのだ。 しかし、目に見える不公平だけで、一概に 人の幸不幸を決めることはできない。 人の命を取り巻く境遇は、神という運命によって与えられるものであるかもしれないが、それを どう思い、どう生きるのかは 個々人が 自らの意思で決めるものだろう。 瞬は、与えられなかった人生で、それでも 与えられなかったものに感謝して生きている。 氷河は、瞬の言葉に従うしかなかった。 |