パパの恋






「マーマとは何だっ、マーマとはっ! 貴様は忘れているようだが、俺の弟は れっきとした男なんだぞ! それを、マ……マ……マ……何がマーマだ! この、救いようのないマザコン野郎がっ!」
実際に その現場を見聞きする前に 状況を説明しておいた方が、瞬の兄が受けるショックも小さくて済むだろう――という紫龍の思惑は裏目に出たようだった。
こんなことなら、何も言わずに 一輝を 瞬とナターシャのいるところに連れていき、ナターシャが瞬を『マーマ』と呼ぶ場面を見せてしまった方がよかったかもしれない。
その方が、瞬の兄も、地獄の閻魔大王ですら裸足で逃げ出すような形相で喚き出すようなことはしなかったかもしれない。
紫龍は、自分の読みの浅さを悔やんだのだが、すべては後の祭りだった。

『おまえの弟は、氷河が引き取った小さな女の子に“マーマ”と呼ばれ、彼女のマーマの役目を立派に果たしている』という紫龍の近況説明に、瞬の兄は見事に爆発した。
それでなくても 常に噴火警戒レベル4(要 非難準備)の男の耳にガソリンを注ぎ込むような真似をしてしまったのだ。
これは、どう考えても、この結果を予測できなかった紫龍の落ち度だった。

「貴様のマザコンには、ほとほと愛想が尽きたっ! どうして 貴様は、平気で こんな恥知らずな真似ができるんだっ!」
氷河のマンションのリビングルームが、瞬の兄の怒声が作る木霊で いっぱいになる。
紫龍の判断ミスは判断ミスとして、一輝の激昂は、だが、致し方のないものだったろう。
最愛の弟が 男に懸想されているだけでも噴飯ものだというのに、その男は、どこからともなく、どこの誰とも知れない小さな子供を連れてきて、一輝の最愛の弟を その子供の“マーマ”にしてしまったのだから。

「一輝、落ち着けよ。ここは集合住宅だ。怒りに任せて破壊したら、ホームレスを多数 生み出すことになる」
一輝に自制を促しながら、実は 星矢自身も 腹の中では、これは本当は氷河の仕事だろうと憤っていたのである。
が、当の氷河は、客商売をするようになってから なぜか更に磨きがかかったポーカーフェイスで、瞬の兄の激昂を柳に風と受け流していた。
「貴様は 何を怒っているんだ。ナターシャが 瞬を自分の母と信じ 慕っていることは、貴様にとっても都合のいいことだろう」
「なにっ」

弟というからには男子である。
そして、母というものは、普通は女性である。
正真正銘 男子であるところの弟が、幼い少女に 母として慕われていることに、どんな“都合のいいこと”があるというのか。
それは自然にも社会にも反した、不自然で非社会的な事象以外の何物でもない。
――と、一輝は思っただろうし、事実もそうだったろう。
だが、氷河は、一輝の怒声にも睥睨にも 全く動じる様子を見せなかった。

「今の俺と瞬は、ナターシャの両親なんだ。二人で ナターシャの成長を見守っていこうと考えている。貴様が気に入らないのは、俺が瞬に恋をしていることだったんだろう? 俺と瞬は、今は、情熱の赴くまま 無分別に恋し合う恋人同士ではなく、ナターシャの父と母だ。たまたま 瞬の方が俺より優しくて綺麗だから、ナターシャは瞬をマーマと呼んでいるだけだ」
一輝が、あからさまに不信の目を氷河に向ける。
男子である瞬が、幼い少女に“マーマ”と呼ばれる状況を正そうとしない男の どこに分別があるのかと、彼は言いたげだった。

「つまり、今の俺と瞬は、恋人同士ではなく、ナターシャを育てるという 同じ目的を持った同志なんだ」
氷河に重ねて告げられても、一輝は自らの疑いを拭い去れないでいるようだった。
一輝は、幼い頃からの氷河の 瞬への執着振りを、嫌になるほど見聞きしてきた。
そんな一輝には、たかが子供一人のために 氷河がそれを放棄することがあるとは、到底 信じ難い事実だったのだろう。
何より 一輝は、氷河が恐ろしく素直で正直な男だということを知っていた。
氷河は、自分の欲望に 素直すぎるほど素直で、正直すぎるほど正直な男なのだ。
自分の欲しいものを手に入れるためになら、氷河は 平気で嘘をつく。
その嘘は 氷河にとって、自分が生きるために必要な嘘で、だから、氷河は その嘘を嘘とは思わない。
当然、彼は、自分の嘘に罪悪感を抱くこともないのだ。
それが、氷河という男のたちの悪さだった。

不信感でいっぱいの一輝に、決定打と言わんばかりに、氷河が告げた言葉。
それは、
「瞬は、夜勤の時以外は毎晩 ナターシャと寝てやっているぞ。ナターシャは時々 恐い夢を見るとかで、一人では眠れないんだ」
というものだった。
「……」
それは つまり、今の氷河と瞬の間に そういう行為が行われていない――ということなのだろうか。
平然と夜の生活のことまで公言して はばからない氷河に、さすがの一輝が 暫時 声と言葉を失った。

そこに、別の階にある瞬の部屋に行っていたナターシャと瞬が帰ってくる。
ナターシャは、初めてマーマのお兄さんに会うというので、念入りに おめかしをしてきたようだった。
髪に白い薔薇の髪飾り、ピンク色のワンピース。
瞬に そっと背中を押されたナターシャが、瞬の兄が腰掛けているソファの前に進み出る。
そして、ナターシャは とびきりの笑顔で、“マーマのお兄さん”に“はじめまして”の挨拶をした。
「一輝おじちゃん、はじめまして。ナターシャです!」

物怖じした様子のない明るい瞳。
“マーマのお兄さん”が優しい人でないはずがないと信じ切っているような、その眼差し。
ナターシャが特殊な命で生かされている 特殊な存在だということは――その姿の通りに 幸福なだけの少女でないことは―― 一輝も聞いていた。
一輝は、“一輝おじちゃん”の好意を信じ切っている幼い少女に不機嫌な態度を示すわけにはいかず、かといって笑顔で応じるわけにもいかず、悩んだ末に、
「うむ」
という短い答えだけを返した。

素っ気ない答えではあったが、ナターシャは特段 一輝を恐れた気配は見せなかった。
一輝の向かい側の席に腰掛けていた氷河の膝に飛び乗り、興味深げに一輝おじちゃんのサングラスを見詰める。
マーマに似ている(はずの)優しい瞳を、ナターシャは見たがっているのかもしれなかった。
「兄さん。ナターシャちゃんの前では、サングラスは外してあげて。前にも言ったでしょう。濃い色のサングラスは瞳孔を開いて紫外線を吸収してしまうんです。目によくないんですよ」
暗に、ナターシャに顔を見せてやってくれという弟の願いを、
「これを外したら、ナターシャが ますます俺を恐がるだろう」
と言って一蹴する。

「ナターシャ、ちっとも恐くないヨ。ナターシャ、あれ、ほしいー」
「ほら、ナターシャちゃんが変なことを言い出しちゃう。ナターシャちゃん、だめだよ。これは、優しい目をした人が 恐い人の振りをするために掛けるものなの」
「えーっ。パパ、掛けてみせてー」
人に『恐い』と思われることを気にしている氷河が、ナターシャには“優しい目をした人”に見えているらしい。
そんなナターシャに、瞬は微笑み、星矢と紫龍は呆れ、そして 一輝は驚いた。

「氷河の軟弱振りが ちゃんと見えているわけか。賢い子だな」
“軟弱”の意味は わからなかったようだが、自分が褒められてことは わかったらしい。
ナターシャは嬉しそうに、氷河の膝の上で足をぱたぱたさせた。
氷河がナターシャを叱らずに、その膝をぽんぽんと叩いて、ナターシャを大人しくさせる。
ナターシャはすぐに、パパの言うことをきいた。
ナターシャは確かに賢い子のようだった。
見えないもの、聞こえないものを、ちゃんと感じ取ることができている。
では、子供には問題はない。
問題は、やはり大人たちの方にあるようだと、一輝は思うことになったのである。

「瞬。おまえ、毎晩 ナターシャと一緒に眠ってやっているのか?」
「え? ええ、そうなんです。ナターシャちゃんは時々恐い夢を見るんです。誰もいない街を一人で歩いていて、いくら呼んでも 氷河も僕も来てくれないって……。それで、一人で眠るのが恐いって言うんです。でも、マーマと一緒なら平気なんだよねー」
「うん。ナターシャ、マーマと一緒なら平気」
「ナターシャ。おまえが 毎晩 瞬と眠っているというのは本当か」
ナターシャは、既にマーマが そうだと言ったことを 重ねて問うてくる一輝おじちゃんを訝ることはせず、笑顔で大きく頷いた。
「ナターシャ、マーマと おねむするの。マーマがお仕事の時は、パパと おねむすることもあるよ。一輝おじちゃんも、ナターシャと おねむする?」
「いや、それは――」
さすがに それは御免被りたかったが、それはともかく。

瞬が嘘をつくはずがないし、ナターシャが嘘をつくことは更にないだろう。
では、氷河の言っていたことは事実だということになる。
そういう行為に及んでいないならいいという問題でもないのだが、それでも一輝は やはり 氷河の言葉を信じることができなかった。
身辺に不信の念を漂わせている一輝を一瞥してから、氷河が 膝の上からナターシャを下ろす。
「ナターシャ。一輝おじちゃんは、ナターシャと同じでオレンジジュースが大好きなんだ。一輝おじちゃんのためにオレンジジュースを作ってやろう」
「ナターシャ、ハチミツを混ぜてあげるー」
「それは一輝おじちゃんも喜ぶだろう。一輝おじちゃんは、ナターシャより甘いものが大好きなんだ」
「ハチミツ、いっぱいいっぱい、まぜまぜするー」
「……」
“一輝おじちゃん”は、ナターシャが まぜまぜしたものを飲まなければならないのだろうか。
手をつないでキッチンに向かう氷河とナターシャの、(一見)春の陽だまりのように ほのぼのした光景に、一輝は戦慄した。

「しゅ……瞬。あの二人は、俺を殺す気なのか!」
「そんな大袈裟な……。普通より ちょっと甘いジュースになるだけですよ」
その“普通より ちょっと甘い”が恐いのだということが、甘党の瞬には わからないのか。
――という、一輝の無言の叫びが 瞬に届いたわけではないだろう。
瞬が 氷河と瞬のあとを追ってキッチンに向かったのは、ナターシャが一輝おじちゃんのために一生懸命 まぜまぜしたオレンジジュースを 本当に一輝が飲むことができなかった時のことを案じてのことだったに違いない。
そんなことになったら、ナターシャが悲しむ。
その事態を避けるために、瞬はキッチンに向かったのだ。
「ナターシャちゃん。一輝おじちゃんは、今 ダイエット中なんだって」
そう言いながらキッチンに向かった弟の後ろ姿に、一輝は ほっと安堵の息を洩らすことになったのである。






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