泣く子も(ひきつけを起こして)黙る 不死身の男が、小さな女の子の前で たじたじ。
星矢と紫龍は 一輝おじちゃんの情けない様子を見て笑いかけ、だが、彼等はすぐに 一輝の立場を思い遣って その笑いを噛み殺した。
噛み殺しきれなかった笑いを隠すために、話を微妙に脇に逸らす。
「しかし、ナターシャが少しも一輝を恐がらないのはすごいな。普通、恐がるだろう。突然、こんな男が目の前に現れたら」
「氷河も愛想のある男とは言えん。ナターシャは、無表情で恐い男を見慣れているし、そんな男が実は甘いことも知っているからな」
「ああ、それもそうか」

星矢が、今度は 遠慮なく 笑顔を作る。
甘いオレンジジュースの恐怖が消えたせいか、一輝は元の(?)無愛想な顔に戻っていた。
というより、彼は そもそも、星矢と紫龍の言動を気に掛けていなかったらしい。
自身の考えと迷いに 耽っていたらしい。
やがて 一輝は、星矢たちの前で、まるで独り言のように 低く呟いた。

「俺は……氷河の何が気に入らなかったんだろう……。男のくせに瞬を恋愛対象として見ていることか。兄弟とは違う絆、仲間とは違う絆を、瞬との間に構築しようとしていることか。瞬が俺より氷河と親しくなることが嫌だったのか。それは嫉妬か。わからん……」
一輝当人に わからないことが、一輝ならぬ身の星矢や紫龍に わかるはずがない。
否、わかるような気もしたが、彼等は彼等の考えを口にしなかった。
おまえは、氷河と自分の どちらが、より瞬を幸せにできるのかということを、氷河と競い合っていたのだ――とは。
それは、争っても仕方のないこと。瞬が幸せになるためには二人が必要。むしろ、みんなが必要なのだ――とは。

幸い 一輝は、その件についての意見を仲間たちに求めてはこなかった。
瞬がリビングに戻ってきたので、そうするタイミングを逸しただけだったかもしれなかったが。
「兄さんのオレンジジュースには、氷河が こっそりドライ・ジンを入れてくれるそうです。ナターシャちゃんのために、頑張って 飲んであげて」
さすがの氷河も、一輝への嫌がらせのために ナターシャをがっかりさせるようなことはできなかったらしい。
引きつるように頷いてから、一輝が、いくつになっても最愛の弟を 改めて見やる。

「瞬。今、おまえにとって最も大切な人間は誰だ」
「最も大切……って? みんな 大切ですよ。兄さんも星矢も紫龍も氷河も。それは 比べられるようなことじゃないでしょう。あ、でも、ナターシャちゃんは まだ小さな子供だから、ちょっと特別かな。誰よりも守ってあげたいと思います」
「氷河ではないのか」
「氷河は、僕に守られなくても十分に強いでしょう。ナターシャちゃんのパパになってから、心も――大人になったと思います」
「氷河が大人だと…… !? 」
氷河に対する一輝の不信感は根強い。
にわかには信じられないという顔になった兄に、瞬は首肯した。
「今は、氷河も、ナターシャちゃんの幸せがいちばんの望みだと思うけど」
「……」

そうかもしれない。
そうなのかもしれない。
だが、やはり 信じ難い。
氷河は いつも、自分の幸福が最も大切な人間だった。
そのために 瞬が必要で、(一応)仲間が必要で、地上の平和が必要。
だから、アテナの聖闘士として戦うことを続ける。
それが結果的に 地上に生きる すべての人間への奉仕になっているだけで、氷河は、地上に生きる すべての人々の幸福と平和を守りたいという思いから戦いを続ける瞬とは、目的と結果が真逆なのだ。
一輝にも、氷河の戦い方を間違っていると断じることはできなかったが、それでも。
それでも、氷河と瞬は 違う種類の人間だという考えを、一輝は捨てることができなかった。

「しかし、男子のおまえを マーマと呼ばせるのは――」
「氷河が呼ばせているわけじゃありませんよ。ナターシャちゃんが そう思い込んでしまったんです。ナターシャちゃんは、パパとマーマが欲しかったらしくて、ナターシャちゃんに 最初にマーマと呼ばれた時、氷河も僕も 違うって言えなかった。でも、そのうちに ちゃんと説明しますよ。僕も、いつまでもナターシャちゃんのマーマではいられませんから」
「そのうち説明するつもりなら、今すぐ説明してもいいだろう。そもそも 氷河が勝手に引き取った子供を、なぜ おまえが世話しなければならないんだ。……いや、おまえらしいことだとは思うが……」
「ええ」
どれだけ大人になっても、一輝の素直な弟である瞬は、まず兄の意見に賛同した。
そうしてから、やわらかく反論に及ぶ。

「仕方がないんですよ。氷河は、あまり表情豊かとは言えなくて、顔立ちが綺麗なせいもあると思うんですけど、氷河を知らない人たちは 氷河を恐いと感じてしまうようなんです。氷河がナターシャちゃんといると、二人は 恐いお兄さんと小さな女の子の二人連れで――パパと娘として見てもらえないんです。誘拐犯と疑われて、職務質問されたこともあるくらい。でも、僕が一緒だと、親子に見てもらえるんです。氷河に、『おまえの優しい顔が必要だ』って 頼まれて、僕――」
ナターシャの“マーマ”になることを 断われなかったというのか。
断われないだろう。瞬なら。

「それに、氷河は 夜は仕事で家にいませんから、氷河が一人だけで子育てをするのには、やっぱり無理がありますし。だから、二人でナターシャちゃんの成長を見守ろうって、僕たち、約束したんです。兄さんが 小さかった僕を守ってくれたように、僕は そうしたいと思ったの。兄さんに恩返しできない分、ナターシャちゃんを守ってあげようって」
「……」
瞬に そう言われてしまっては――瞬の兄に いったい何が言えるだろう。
一輝は何も言えなかった。
何も言えず、黙り込んだ。

『今の俺と瞬は、ナターシャを育てるという、同じ目的を持った同志なんだ』
母を知らない瞬と 母を失った氷河が、共に一人の子供を育てる。
氷河は“母”が欲しかったのだろう。
本当の母は 亡き母ひとりで、代わりはいない。
だが、ナターシャの母なら手に入る。
氷河は、いつも通り、自分が欲しいものを手に入れるべく 努め、動き、目的を達したのだ。


氷河とナターシャの合作“激甘オレンジ・ブロッサム”を 決死の思いで飲み干し、一輝は 何とか ナターシャを悲しませずに済んだ。
「俺は、今夜は これから仕事がある。一輝、今夜は ここに泊まっていったらどうだ? ナターシャがいるから、兄弟水入らずとはいかないが」
という、以前の氷河なら考えられない寛大な申し出は、その申し出を受けると、ナターシャと おねむをする羽目に陥りそうなので、丁重に断った。

得心はできなかったのである。
得心はできなかったが、ナターシャからマーマを奪うことは、一輝にも―― 一輝だからこそ、できなかった。






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