「氷河、あのね」
ナターシャを寝かしつけて、氷河の家のリビングルームに戻った瞬は、実は、『あのね』に続ける言葉を考えていなかった。

『ナターシャのために、マーマを見付けよう』
『ナターシャのために、マーマを探そう』
『ナターシャにはマーマが必要』
『ナターシャにマーマを与えるのは、ナターシャのパパの義務』
何を言っても、どういう言い方をしても、氷河は機嫌を悪くする。
かといって、『子供はマーマがいなくても、ちゃんと育つ』とは、なおさら言いにくい。
氷河は、ナターシャを 世界で いちばん幸せな子供にしてやりたいのだ。
悲しみを知らず、苦しみを知らず、寂しさを知らず、『自分には欠けたものがある』と思うことのないような。

それが氷河の望みなのであれば、瞬には、その望みを否定することはできなかった。
問題は、その望みが実現するかどうかではない。
そうではなく――氷河が それを望んでいるということなのだ。
だというのに。
「ナターシャには、マーマは死んだと言う」
氷河の その言葉を聞いて、瞬は自分の耳を疑った。
星矢が言っていた通り、それこそが正しい対応方法なのたろうとは思う。
だが、正しさなど――そんなものには、不幸で悲しかった小さな少女の幸福を願う父の心の百分の一ほどの価値も意義もない。

氷河は、リビングのソファに座っていた。
上体を少し前方に屈め、両腕が膝の上。
左右の手の指が組まれている。
そういう姿勢でいる時の氷河は、考え事をしていて、迷っているか、諦めようとしているか、『そうしなければならない』と自分を説得しているか。
少なくとも、『そうする』という決断を済ませたあとの彼ではない。
まだ、その決意を翻させるだけの余地はある。
そう、瞬は思った。

「駄目だよ! そんなこと言われたら、ナターシャちゃんは悲しむ。絶対だめ。氷河、言ってたでしょう。ナターシャちゃんには幸せな思い出しか必要ないって」
「前言は撤回する」
「駄目……駄目だよ。そんなことしたら、僕、氷河と絶交する!」
氷河がナターシャのために そうすることを決意したのなら、瞬は何も言わないのである。
氷河の意思を尊重し、その決意を受け入れる。
瞬に そうすることができないのは、氷河のその決意が ナターシャのためのものではないことが わかっているからだった。
氷河は“瞬”のために それをしたのだ。

「絶交されるのが嫌なら、俺にナターシャの母親を調達しろというのか。そんなことはできん」
氷河が、組んでいた左右の手の指を解く。
そして、片方の手が瞬の首筋に伸びてくる。
氷河は決断を完了してしまったらしい。
熱いのに冷たい氷河の手の感触に、瞬は青ざめた。

「俺が そんなことのできる男でないことは、おまえが誰よりも よく知っているだろう。俺を困らせないでくれ」
氷河が そういうことのできる男ではないことを誰よりも よく知っているから、瞬は迷うのだ。
自分に母がいないことを受け入れて育ってしまった人間は、人に甘え、甘やかされることが得意ではないのだと思う。
ナターシャには、そんな子になってほしくない。
“瞬”が そんなふうに考える人間だということを 誰よりも よく知っている氷河が、迷う瞬の身体を 強い力で自分の方に引き寄せた。



翌朝。
「ナターシャちゃん。今度の日曜日、お花を見に行かない? フラワー・アレンジメント――お花を いろんなふうに組み合わせて飾る展示会があるの。綺麗なお花を たくさん見られるよ」
「見に行くー! パパも一緒に行こうね!」
「……ああ」
瞬の誘いに喜ぶナターシャに首肯する氷河の声と眼差しに不信の念がにじんでいたのは、瞬がセックスで説得することはできない人間だということを、彼が 誰よりも よく知っていたからだったろう。






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