多くの官公庁や大企業の本社ビルが居並ぶオフィス街のど真ん中にあるというのに、休日であるにもかかわらず、HBY公園には それなりの人出があった。
とはいえ、いわゆる若者の街でも ファミリー層が集う場所でもないので、公園内を散策したりベンチで休憩したりしているのは、主に緑や静寂を求める大人たち。
平日のビジネス街の喧騒も 慌ただしさも、今はない。
だからだったのだろうか。
「パパー。瞬ちゃんと お花 見るー」
というナターシャの訴えが、公園内に木霊を作ったのは。

(木霊……?)
そんなものが、こんなところでできるはずがない。
バルゴの瞬に恋するアクエリアスの氷河が、石を投げれば当たるような ありふれた女に心を動かされることがあると 瞬に思われたことに腹を立て――自分の苛立ちにばかり、気を取られ――周囲への注意を怠っていた自分に、氷河は舌打ちをした。

公園内の木々、その木々の向こうに見える高層ビルが皆、奇妙に歪んで見える。
氷河とナターシャは、いつのまにか、都会の真ん中に出現した異空間の中にいた。
公園内にいる一般人たちは、公園内の その場所の空気、空間が捩じれていることに気付いていないらしい。
異空間の内からでも 異空間の外の光景は見えるのに、氷河は そこから外に出ることができなかった。
氷河とナターシャの背後から――否、前方からか――、
「何がパパだ。顔の無い者の首領の一人が落ちぶれ果てたものだな」
という、耳障りな声が響いてくる。
「本来 殺しのターゲットだった聖闘士なんぞに 貴様が寝返ってくれたせいで、ギルドの信用は地に落ち、組織として立ち行かなくなりかけているのだぞ」
声の主の黒いケープに覆われている身体は、大きさは常人の範囲内にあったが、腕が異様に長い。
直立していても、地面に手が届きそうな――まるで猿人のような体躯の人間――人間なのだろうか? ――だった。

「顔の無い者の残党かっ!」
それが、ワダツミより、瞬が倒した冥府の神の力を宿す刀を持つ者より、脆弱な力しか持たないアサシンだということは、氷河には すぐに わかった。
倒すことは たやすい。
この空間の外でなら。
せめて、ナターシャだけでも この空間の外にいてくれたなら。

「パパ……パパ、頭が痛い……身体が 全部痛いよ……!」
「ナターシャ!」
「頭が割れる……身体が千切れる……!」
氷河に抱きかかえられていたナターシャが、急に苦しみ始める。
ナターシャの顔は歪み、その腕や脚は 不自然に捩じれ始めていた。
「ナターシャ!」
『痛いのか』『苦しいのか』『大丈夫か』
どんな言葉を口にしても無意味である。
氷河は、とにかく、この空間の外にナターシャを連れ出さなければならなかった。
だが、どうやって。

そこに、瞬の声。
「氷河っ!」
「瞬っ!」
瞬ほどの小宇宙の力があれば、この空間に入ることはできるらしい。
結界としては脆弱。だが、檻としては、この空間は 恐ろしく強固だった。

「氷河、ナターシャちゃんを連れて逃げてっ。ここは僕が何とかする」
瞬が、氷河とナターシャを背後に庇い、猿人もどきの前に立つ。
「そんなことが できるかっ!」
「この空間の中にナターシャちゃんを置くのは危険だ! 早くっ」
「パパ、痛い……痛いよ……身体が全部 痛いよお……!」
「氷河、早く!」
「瞬、すまんっ」
氷河が、苦しむナターシャの身体を抱き、後方に跳びすさる。

異空間の広さは、猿人もどきを中心に半径30メートルほど。
50メートルは跳んだつもりだったのに、氷河はまた異空間の中にいた。
空気の壁。
次元の壁。
それは 物理的な空気の壁ではなく、次元の相違が作る壁らしい。
その捩れを正さないことには、地球一周分 走ったとしても、閉じ込められた人間は その外に出ることはできなさそうだった。
一次元、二次元、三次元――猿人もどきは、三次元を多次元に変換している。
その次元変換の起点――次元軸の0の交点を探し出し、そこを突破しなければならない。
しかし、それは どこなのか。

「痛い……痛いよ、パパ……ナターシャが壊れる……!」
「ナターシャ……!」
ナターシャは苦しみ続けている。
一刻も早く 0の交点を見付け出し、そこを 物理を超えた絶対零度以上の凍気で破壊すれば、何とか。
しかし、それまで ナターシャの身体はもつのか――。
死体を繋ぎ合わせてできた もろいナターシャの身体。
ナターシャの苦しみが氷河を焦らせ、氷河に精神と小宇宙の統一を許さない。
(くそっ。どこだ!)

「パパ……っ」
ナターシャの悲鳴は、もう声ではなくなっていた。
それは、真冬のシベリアの空を引き裂く風の音に酷似していた。
風の音は、そして、消えるしかない――。
氷河が そう思った時、ナターシャの身体と心は もがくのをやめた。
氷河は、一瞬、ナターシャの死を覚悟したのである。
だが、そうではなかった。

瞬の小宇宙がナターシャを包んでいた。
ナターシャは もう苦しんでいない。
「瞬ちゃんの抱っこ……」
ナターシャは 笑顔を浮かべていた。
温かく優しく、いちばん気持ちのいい抱っこ。
昔、彼がまだ白鳥座の青銅聖闘士だった頃、氷河も その小宇宙に抱かれたことがあった。
瞬が命をかけて、仲間の命を甦らせてくれたのだ。
(命をかけて――)
ナターシャの笑顔に安堵していた氷河は、すぐに再び心身を緊張させた。

「瞬、こっちは俺が何とかする。おまえは敵を倒すことだけに集中しろ」
「僕たちの戦いは、敵を倒すことじゃなくて、戦う術を持たない人を守るためにあるものだよ」
「舐めた真似を……そんな余裕を見せていられるのも今のうちだ!」
異空間に ターゲットを閉じ込めるしか能がない敵だとばかり思っていたのに、猿人もどきは物理的な力を伴った攻撃力をも備えていた。
男が作り出す異空間のように、自らの身体を捩じらせて――アサシンの異様に伸びた腕と爪が、聖衣をまとっていない瞬の肩を貫く。

「う……」
瞬が声をあげないのは、ナターシャに悲鳴を聞かせないため。
猿人もどきの腕と爪を よけなかったのは、その異様な腕と爪が氷河とナターシャのいるところまで伸びることを許さないため。
「ナターシャちゃんには、指一本 触れさせない!」
「瞬ちゃんっ」
瞬の小宇宙に守られたナターシャ自身は 痛みを感じていないようなのだが、彼女は 視覚と心で瞬の痛みを感じ取ってしまっているらしい。
瞬は、ナターシャの目に 自身の痛みを見せないために、すぐに その出血も止めた。

我が身を犠牲にしてナターシャを庇う瞬の その行為が、氷河に0の交点の場所を教えてくれたのである。
涙の雫のように異空間に散った幾粒かの瞬の血が、ある一点で消滅したのだ。
そこが、破壊すべき0の交点、
氷河は、一瞬で 小宇宙を最大限に燃やし、0の交点を引き裂いた。

「瞬! 裂け目ができた。ナターシャは もう大丈夫だ!」
「うん」
ナターシャの安全さえ確保できれば、猿人もどきのアサシンは バルゴの瞬の敵ではなかった。
「ナターシャちゃんを恐がらせないように、静かに綺麗に消えてください」
抑えた声で、瞬が猿人もどきに命じる。
瞬の生む凄烈な小宇宙が 猿人もどきを静かに綺麗に消滅させ、猿人もどきが消えると、空間の捩じれも消え去った。
瞬が がくんと膝をついたのは、元のビジネス街にある緑の多い公園の歩道。
今 ここで起こったことに、氷河たち三人の他には 誰も気付いていないようだった。
瞬の小宇宙は 相変わらず 温かく優しく、その温かさ優しさのせいで気付きにくい力強さをたたえていて、氷河の心を安んじさせてくれたのである。

氷河は、抱きかかえていたナターシャを地面に下ろし、彼女の もろい(はずの)身体が壊れていないことを確かめた。
「ナターシャ、大丈夫か。どこも怪我は――」
『大丈夫』とも『恐かった』とも、ナターシャは答えを返してこなかった。
「ナターシャ……?」
彼女の無事を確かめようとする氷河の声が、どうやら ナターシャには聞こえていないらしい。
ナターシャは、猿人もどきが消えた場所に膝をつき、肩で息をしている瞬を じっと見詰めていた。

「ナターシャのマーマは……綺麗で優しくて、ナターシャを命をかけて 守ってくれて……」
美しく、優しく、命をかけて我が子を守ってくれる人。
誰よりも我が子を愛し、その愛ゆえに永遠に忘れ難い、母という人――。
今、ナターシャの瞳に映っている人が、それだった。
ナターシャが、その人の名を呼ぶ。

「マーマっ !! 」
美しく、優しく、命をかけて我が子を守ってくれる人。
誰よりも我が子を愛し、その愛ゆえに永遠に忘れ難い、母という人――。
ナターシャは、その人の許に駆け出した。
「マーマ、マーマ、大丈夫っ !? マーマ、痛いの? マーマ、死なないでっ !! 」
「ナ……ナターシャちゃん……?」

猿人もどきの異様に長い腕と爪からナターシャを守るために、あえて 暗殺者の攻撃を その身に受けた。
聖闘士といっても、生身の人間。
『痛いの?』と問われれば、それは もちろん痛かった。
事実、瞬は、まだ地に膝をついたまま、立ち上がることができずにいた。
だが、瞬は、ナターシャが自分に与えてくれた新しい名前に驚いて、その痛みを瞬時に忘れてしまったのである。

「ちっとも痛くないよ」
その言葉が先だったのか、微笑が先だったのか。
それとも、瞬の瞳に涙がにじみ出す方が早かったのかもしれない。
瞬に『痛くない』と言われたナターシャが、泣きそうな目をして瞬の首に しがみついてくる。
「し……死んじゃうかと思った……マーマが死んじゃうかと思ったよぉ……!」
ナターシャは、それで やっと泣くことができるようになったらしい。
マーマの首にしがみついて、わんわん泣き出したナターシャの身体を、瞬はしっかりと抱きしめた。

「僕は ナターシャちゃんを置いて、死んだりしないよ」
ナターシャの人生に、幸せな思い出だけを積み重ねていくために。
幼かった氷河が味わった悲しみを、ナターシャには味わわせないために。
「僕は強いからね」
そして、バルゴの瞬は 更に強くなるだろう。
この小さな命と心を守るために。
小宇宙の力は無限。
アテナの聖闘士の力は、こんなふうにして 無限に強く大きくなっていくのだと、ナターシャの小さな身体を抱きしめながら、瞬は思った。






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