パパの真実






「このトンマ」
紫龍おじちゃんが なぜ そんなことを言ったのだったかを、ナターシャは憶えていない。
紫龍おじちゃんの言葉が あまりに衝撃的だったので、ナターシャは その前後のやりとりを ほとんど忘れてしまったのだ。
“しゃんはいろうしゅ”という お酒の良いものが手に入ったと言って、ナターシャの家を訪ねてきた紫龍おじちゃんが、パパに向かって、呆れたような顔で言った、その言葉。
「おまえは どうして、そう抜けているんだ。一つのことに意識を向けると、他のことが目に入らない視野狭窄。見掛けは大人になったのに、顔だけはクールを装いつつ、その実、昔と全く変わらず 間抜けというか、頓馬というか、やること為すこと すべてが、世間の常識から ずれている」

ナターシャは、紫龍おじちゃんの その言葉にびっくりしてしまったのである。
“しやきょうさく”の意味はわからなかったが、“トンマ”という言葉の意味は、以前 マーマに聞いて知っていた。
パパやマーマが子供の頃に暮らしていた家にタツミというトンマな人がいたという話を、星矢おにいちゃんから聞いたことがあったのだ。
その時にはまだ“トンマ”の意味を知らなかったので、ナターシャは その言葉の意味をマーマに尋ねた。

マーマは、困ったような顔をして、それから真面目な顔になって、
「“トンマ”っていうのは、“可愛い おばかさん”っていう意味の言葉だよ。でもね、そう言われると、怒ったり傷付いたりする人もいるから、ナターシャちゃんは トンマなんて 人に言っちゃ駄目だよ」
と説明してくれた。
だからナターシャは、“トンマ”を“使っちゃいけない言葉”に分類して、自分の記憶の棚に納めたのである。
星矢おにいちゃんは、他にも、“あほう”だの“おたんこなす”だの“あんぽんたん”といった面白い言葉をたくさんナターシャに教えてくれたが、その大部分は“意味は知っていてもいいけれど、使っちゃいけない言葉”だった。

星矢おにいちゃんが“使っちゃいけない言葉”を口にするたび、マーマは、星矢おにいちゃんに、
「ナターシャちゃんの前で、そういう言葉は使わないで」
と注意する。
星矢おにいちゃんは、マーマに注意されると、
「はい、はい、はーい」
と返事をして、だが、次の時には、“とんちんかん”だの“すっとこどっこい”だのと、また別の面白い言葉をナターシャに教えてくれるのだった。
マーマが それでも星矢おにいちゃんに 黙っているように言わないのは、“キボウ”だの“ユウジョウ”だの“キズナ”だのの、“とても大切で、使っても いい言葉”も教えてくれるからのようだった。
星矢おにいちゃんは、“意味は知っていてもいいけれど、使っちゃいけない言葉”、“とても大切で、使っても いい言葉”の他に、“コスモ”だの“セイント”だの、“とても大切だけれど、よその人には秘密にしておかなければならない言葉”も教えてくれた。
ナターシャは、それらの言葉を、マーマに言われた通りに整理して、一つずつ覚えていったのである。


ところで、問題は“トンマ”である。
ナターシャは、パパを とてもかっこよくて強くて優しいパパだと思っていた。
にもかかわらず、ナターシャのパパの友人である星矢おにいちゃんは、ナターシャのパパを、しばしば“エセクール”だの“すかぽんたん”だのと評する。
星矢お兄ちゃんは いつも笑いながら そう言うので、ナターシャは これまでは大抵は 楽しい気持ちで、そういう言葉を聞いていた。
が、紫龍おじちゃんが 真面目な顔と口調で パパを『このトンマ』と言うのを聞いた時、ナターシャは なぜか それが大変なことのような気がしてきてしまったのである。

不安になったナターシャは、すぐにマーマに尋ねた。
「マーマ。パパはかっこいいよね。なのに どうして 紫龍おじちゃんや星矢お兄ちゃんは パパを かっこいいって言わないの。ナターシャが 間違ってるの? ほんとは、パパはかっこよくないの?」
ナターシャは、とても真剣に とても深刻な気持ちで尋ねたのだが、ナターシャに尋ねられたマーマの返事は、やわらかく楽しそうな微笑だった。

「ナターシャちゃんはパパが大好きでしょう? それでいいんじゃないかな。それが いちばん大事なことだもの。星矢や紫龍は 氷河の仲のいい友だちで、氷河のことを好きだから、そういうことを軽い気持ちで言うんだよ」
「マーマは? マーマは、パパのこと、かっこいいと思う? トンマだと思う?」
「僕は、氷河が大好きだよ。ナターシャちゃんと おんなじ」
「ナターシャと おんなじ?」
「そう。ナターシャちゃんと おんなじ」

ナターシャは 『ナターシャちゃんと おんなじ』というマーマの答えを喜び、安心した。その時には。
だが、ナターシャは、あとになってから気付いたのである。
マーマは、『ナターシャちゃんとおんなじで、パパが大好き』と言っただけで、『パパは かっこいいのか、トンマなのか』という質問には答えていない――ということに。

初めて聞く言葉や 合点のいかない出来事。
いろいろなことを尋ねるたびに いつもちゃんと教えてくれるマーマが、『パパは かっこいいのか、トンマなのか』という質問には答えてくれない。
マーマが その質問に答えてくれないのは、マーマが、その質問に答えたくないか、答えられないか。
あるいは、答えてはならないと思っているのか、もしくは、答える必要はないと思っているからだろう。

だが、ナターシャは その答えを知りたかったのである。
パパが実はトンマなのだとしても、パパを大好きな自分の気持ちは変わらないと思う。
マーマの言う通り、“それが いちばん大事なこと”だとも思う。
だが、それでも。
パパは かっこいいのか、トンマなのか。
ナターシャは どうしても本当のことを知りたかった。






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