氷河は氷河の事情で、瞬は これ以上 事態を面倒にしたくなくて、ナターシャはナターシャなりに納得して、敢行した大脱出――というより、大逃亡。
それが、とんでもない大事になっていることを 瞬が知ったのは、それから数日後の朝。
「昨今 話題の指名手配犯、あれは氷河ではないか?」
という紫龍からの一報のおかげ(?)だった。

紫龍が何を言っているのかが わからず、瞬は首をかしげてしまったのである。
そんな瞬(たち)の許に、情報を収集整理し、おちゃらかし要員の星矢までを引き連れて、紫龍がやってきたのは、その第一報から僅か数時間後。
龍座の聖闘士は よほど暇なのか、それとも、それほど迅速に対処しなければならないような大事件が起きているのかと困惑する瞬(たち)に、紫龍が披露した事件の経緯と現況は、実に とんでもないものだった。

E国ロイヤルバレエ団の振付師を務め、自身のダンス・カンパニーも主宰している有名振付師と 米国の大スターが組んで、プロモーションビデオを作ることになった(らしい)。
そのプロモーションビデオに参加するダンサーのオーディション会場に 氷河が迷い込み、審査の邪魔をしてしまった(らしい)。
それが瞬と氷河の認識で、知っていることのすべて。
その認識自体には事実との間に 大きな乖離はなかったのだが、その後の展開が、瞬たちの想像を絶していたのだ。

まずもって、問題のオーディションは、瞬たちが思っていたより はるかに重大なイベントだったらしい。
氷河が逃げ腰になった蘭子ママ系統の振付師も、氷河が知らないレベルの大スターも、知らない方が非常識なほどの世界的ビッグネーム。
彼等の目に留まるということは、それだけで人生の成功が約束されたも同然の好機にして僥倖。
そして、氷河が邪魔をしたオーディションは、彼等が初めて公式に開催したオーディションで――もしかすると、二度と開催されないかもしれないほど稀有で貴重な企画だったらしいのだ。

何名 選ばれるのか、どんな役が振られるのかも わからず、特典や賞金が与えられるわけでもないオーディションに、世界中から 我こそはと意気込むダンサーたちが 数百名規模で あの会場に(もちろん 旅費は自腹で)集まってきていたらしい。
当初は イベント会場内にある公会堂の屋内ステージで行なうはずだったオーディションが、開催1週間前に野外ステージへの開催に変更になったのも、極東の島国でのオーディションに世界中からダンサーが詰めかけてくる事態を予想しきれなかった運営側の読みの甘さゆえ。
その上、書類選考で落とされた者たちや、広報の不備で応募が〆切に間に合わなかった者たちが 諦めきれずに、オーディション当日に会場に押しかけてきたから――だったらしい。
結局、屋外のイベントステージで 30人ずつ5分間の自由演技を入れ替え制で予選を実施し、そこから 見込みのありそうな十数名を選抜、その後 最終選考を屋内ステージで行なう――という運びになった稀有で貴重な企画。

そこに、どこからともなく金髪の男がふらふらと紛れ込んできて、ステージを横切っていった。
直径30メートルの円形ステージ。
そこで30人のダンサーが好き勝手に(必死に真剣に)踊りまくっている。
ぶつからない方がおかしいのに――実際、他のダンサーたちは あちらでもこちらでも衝突事故を起こしていたのに――その金髪男は 他のダンサーに全くぶつからない。
それだけでも、驚異的な運動神経、身体能力だというのに、その上 彼は世界的に有名な振付師と米国の大スターの目の前で、超人的な跳躍力を披露してくれた――のだ。

『最初の30秒ほどは、彼は緊張して踊れずにいるだけの素人なのかと思ったのだ』
『でも、あの身のこなしは、軽く音速を凌駕していたわ』
『しかも、助走なしで バックに5メートルも跳躍できる、驚異的な筋力、瞬発力』
『容貌、プロポーションも 最高。一挙手一投足が奇跡のように美しかったわ』
『ニジンスキーもヌレエフも、あれほどの才能と力は持っていなかったと断言できる』
『彼は、マイケル・J以上のスターになれるわよ』
『すぐに名乗り出てほしい』
『彼は人類の舞踊の歴史を変える何者かだ』
『これまで天才と呼ばれてきた天才たちも、彼の前では幼児も同然』
『天才なんて 平凡な言葉で 彼を表することはできない。彼は人間の天才の域を超えている。そう。彼は半神のダンサーだわ』

紫龍が持参したニュース画像、世界的ダンス・カンパニーの公式サイトとレディGの公式サイトの呼びかけ画像は、人間の能力の域を超えた力を有する超天才ダンサーとの出会いに興奮した二つのビッグネームの姿を繰り返し映し出している。
世界的振付師と大スターの興奮した様子は、あのオーディションに応募した他のすべてのダンサーに、瞬が心底から同情するほどだった。


「おい、半神ダンサー」
それでなくても、ナターシャにバックを取られて自信を喪失していたアテナの聖闘士に、星矢が追い打ちをかけてくる。
どう見ても、星矢は この事態を面白がっていた。
そんな星矢への怒りが、幸か不幸か、氷河の自信喪失からくる落ち込みを相殺する。
氷河に 冷やかな視線を向けられた星矢は、わざとらしく肩をすくめて、いわく言い難い微笑を その顔に浮かべた。

「オーディションのステージを歩いてる おまえの動画を見たけどさあ。普通の人間が あれを見たら、確かに驚くぞ。超音速のダッキング、ウィービング、スウェーバック。絶頂期のM・タイソンも亀に見えるだろ、あの身のこなしは。通勤時の満員電車とまではいかなくても、乗車率8割の通勤電車内で誰にも ぶつからず、車両を行ったり来たりしているようなもんだもんな、あれ」
「どこの誰とも知れぬ奴に触れられるのが嫌だったんだ」
“普通の人間”なら ともかく、光速の拳を見切り、よけることもできる仲間に そんなことを感心されても 嬉しくも何ともない。
一般人のボクサーに比べられることは、黄金聖闘士である氷河には むしろ侮辱でさえあった。

「世界的に有名な振付師だか、米国の大スターだか知らないが、名乗り出なければ諦めるだろう」
不機嫌の極致としか言いようのない顔で、氷河が言う。
「そりゃそうだろうけどさー」
「他に対処の方法がないのは事実だが」
実際問題として、氷河は、アテナの聖闘士としての務めを放棄して『あの指名手配犯は俺です』と名乗り出ていくわけにはいかないのだから、彼の仲間たちは、『この件は放置。無視を決め込む』という氷河の決定を受け入れるしかなかったのである。
地上の平和と、人類の舞踏の歴史を変えること。
その二つを秤に掛ければ、地上の平和の方が はるかに重いのが、アテナの聖闘士たちの価値観だったから。
が。






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