『世界的に有名な振付師だか、米国の大スターだか知らないが、名乗り出なければ諦めるだろう』という、氷河の判断は甘かった。
クリスピークリームドーナツより、生クリームつきピーカンパイより、コンデンスミルクの原液よりも甘かったのである。

世界的に有名な振付師や米国の大スターの尋ね人キャンペーンは かなり大々的なものだった。
その上、ちょうど ニュースになるような事件がなかった日本のマスコミが その騒動に便乗し、超人間的半神ダンサー捜索を大喜びで採りあげ 騒ぎ立てたせいで、それは あっというまに世界規模の大騒動になってしまったのである。
世界的振付師たちが公開した半神ダンサー動画は マスメディアやネット経由で世界中に拡散し、その動画がもたらした衝撃は、ダンス業界のみならず、スポーツ界や演劇界等、各界に及んだ。
世界的振付師が主宰するダンス・カンパニーやE国ロイヤルバレエ団だけでなく、雛祭りイベント会場でのオーディションとは無関係だったバレエ団や舞踊団、多くのボクシングジム、体操協会、スケート連盟、陸上競技連盟、果ては芸能プロダクションまでが、半神ダンサーに 連絡を欲しいとアピールし出したのである。

欲しがる者たちが複数になれば、そこに競争が発生するのは理の当然。
各団体は半神ダンサー獲得に、懸賞金をつけ始めた。
最初のうちは、当人に10万、情報提供者に金一封程度だった懸賞金は 徐々につりあがり、最終的に米国の大スターが、半神ダンサー当人との契約金に5万ドル、情報提供者に5千ドルの謝礼金をつけたところで、やっと上げ止まった。
そして、その頃から、氷河の周囲の空気は落ち着かなくなり始めたのである。

バーテンダーとしての氷河を失いたくないバーの常連客たちは何も言わず、何もしていないようだったが、氷河のバーに初めてやってきた客たちの中には、氷河の姿を認めると 怪しい素振りを見せる者たちが散見されるようになり、マンションの住人たちも 氷河に疑惑の目を向けるようになってきた。
氷河が、人目に触れることに危機感を覚えるようになるのに、長い時間はかからなかった。


「いっそのこと、自分から名乗り出ていったらどうだ? それだけで 5万ドルが手に入るんだぜ。押上のバーテンダーとアテナの聖闘士の二足の草鞋も、世界を股にかけたダンサーとアテナの聖闘士の二足の草鞋も、似たようなもんだろ」
そんなことができるわけがないのに――それは わかっているはずなのに――無茶な提案をしてくる星矢に、氷河は思い切り冷たい睥睨を投げたのである。
「数百万の はした金のために、その気になれば一生 就いていられる職を捨てる馬鹿がいるか」
数百万の金を いともたやすく振り捨ててのける氷河に、紫龍が 少々驚いたよう片眉を上げる。

「おまえ、意外に堅実派だったんだな。成功すれば、5万ドルどころか、億単位の金が手に入るかもしれないのに。E国ロイヤルバレエ団のプリンシパルなら年収は1000万前後だが、レディGの昨年の年収は70億超だったそうだぞ」
「その100分の1でも手に入れば、“マーマより稼ぎの少ないパパ”の汚名を返上できるじゃん」
「それは汚名ではなく、名誉だろう」
「名誉? 何でだよ」
星矢の疑念は、
「稼ぎに関係なく、瞬に惚れられていることの証左だからだろうな」
という紫龍の答えで霧散した。
が、星矢の疑念が消えたからといって、この騒動が治まるわけではない。

「でもさー、世の中には、訳もなく目立ちたがる輩や とにかく有名になりたいって奴が腐るほどいるらしいぜ。実際、おまえが飛び入り参加したオーディションには600人以上の応募者がいたそうだし」
「俺は、目立つのは嫌いだ。俺が欲しいのは、地上の平和と、瞬に愛されている男という栄誉、娘を守ることのできる父の称号、平凡な幸せ、平穏な日々。他にほしいものはない」
「目立つのが嫌いで、平凡な幸福希望だあ !? おまえが どの口で んなこと――」
星矢の巣頓狂な“異議あり”を遮ったのは、
「ナターシャも、パパとマーマと一緒にいられればシアワセー」
というナターシャの声だった。

氷河は さておき、ナターシャに邪気のない目をして そう言われると、確かに、家族と平穏に暮らしていられる日々に比べれば、70億の年収ごときには、どんな価値もないように思えてくる。
だから、星矢は真面目な顔になり、氷河を茶化すのをやめたのである。
代わりに紫龍が、氷河の平穏な生活を妨げる障害についての言及を始めた。
「とにかく、あの動画はネットやテレビで取り上げられ拡散している。半神ダンサーの素性が割れるのは時間の問題だ。どうにかしないと――」
「他人の空似で逃げる。とにかく俺は、踊りだのダンスだの舞踊だのには関わりのないクールな人生を送りたいんだ」
「まあ、その気持ちはわかるが……」

ナターシャの幸せのためにも、ここは真剣に対応策を練らなければならないところなのだが、氷河の切なる(?)訴えに、紫龍は苦笑を禁じ得なかった。
星矢は星矢で、笑いを噛み殺すのに難儀して、苦悶の表情を浮かべている。
そんな紫龍と星矢の様子が、ナターシャを不安な気持ちにさせたらしい。
ソファに掛けていた瞬の手を引いて、ナターシャは 瞬の顔を見上げ、覗き込んできた。
「マーマ。ダンスって、お遊戯のことでしょう? パパはお遊戯、へたなの? ナターシャは、パパと一緒に、“パパとあそぼう ワンツースリー”の“パパといっしょにレッツお遊戯”に出タイヨー」

“パパとあそぼう ワンツースリー”は、ナターシャが毎日 見ている子供向けテレビ番組である。
“パパといっしょにレッツお遊戯”コーナーは、その番組内の1コーナーで、“ぶんぶんぶん”や“お花がわらった”に合わせて パパと子供が二人で創作ダンスを披露する、ナターシャお気に入りのコーナーだった。
ナターシャは、いつか そのコーナーに パパと一緒に出るのが夢で、その日のために 日々 振付の研究に余念がなかったのである。
しかし。
自分が どんなに素晴らしい お遊戯の振付を考えても、自分が どんなに上手に踊ることができても、一緒に踊るパパがへたくそでは みんなに喜んでもらえないかもしれない。
ナターシャは、それが不安だったのだ。
ナターシャの不安を察した瞬が、ナターシャの不安を消し去るべく、その頭を撫でてやる。

「そんなことないよ。氷河はお遊戯、とっても上手なの。でもね、みんなが氷河の お遊戯を見たいって言い出したら、氷河は 正義の味方のお仕事をしている時間がなくなっちゃうでしょう? ナターシャちゃんと一緒に“パパといっしょにレッツお遊戯”に出るだけなら大丈夫だけど、それを毎日の お仕事にするわけにはいかないの。地上の平和が守られていないと、ナターシャちゃんも お遊戯していられなくなっちゃうよ」
「チジョウノヘイワが守られてるから、みんなが幸せでいられるのよね」
「そうだよ」
「パパが お遊戯 へたっぴでないならヨカッター」
ナターシャは、“パパといっしょにレッツお遊戯”にパパと一緒に出る夢を諦めずに済みそうなことに安心したように、明るい笑顔になった。

「……」
ナターシャに夢を諦めさせたくない瞬の気持ちと立場は わかるが、なぜ 瞬は『“パパといっしょにレッツお遊戯”に出るだけなら大丈夫』などという余計な一言を付け加えてしまうのだと、瞬とナターシャの微笑ましいやりとりの横で、氷河は渋い顔になってしまったのである。
もっとも 氷河は、その日のうちに、『“パパといっしょにレッツお遊戯”に出たい』というナターシャの夢が いかに無邪気で害のないものだったのかを 思い知ることになったのであるが。






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