「お二人は、あの……恋人同士なんですか」
再び 顔を伏せてしまった異世界の瞬が、聞きにくそうに尋ねてくる。
自分のことなのに――自分のことだから。
膝の上に置かれた彼の二つの拳が 小刻みに震え続けていることが、瞬は妙に気になった。
「君たちの世界では違うの?」
と尋ねてから、彼がまだ十代の少年であることを思い出し、瞬は 質問の相手を、ナターシャを抱きかかえている氷河に変えた。

「氷河。僕たち、ファーストキスはいつだったっけ」
「俺が8つの時」
「そうじゃなくて、大人になってから」
「“大人”の定義にもよるが」
と前置きする氷河の腕の中で、ナターシャの目が とろんとしてきている。
パパとマーマの注視以上に、その体温を じかに感じていることは、子供の心を安んじさせるもの。
氷河が、
「おまえが眠っている時に、こっそりキスしたことはあったが、おまえの合意を取り付けてからなら16歳――おまえが15の時だな。奥手すぎる おまえに、俺が どれだけ苦労させられたか」
と答えてきたのは、半ば以上 眠りに落ちているナターシャに、若き日のパパが若き日のマーマの寝込みを襲った事実を責められることはないと判断したからだったろう。

「余計なコメントはいりません」
氷河は ナターシャには責められずに済んだが、瞬に責められることになった。
氷河が 片眉を上げて、瞬のクレームに遺憾の念を示す。
瞬は、それは綺麗に無視した。
無視して、隣りにいる十代の瞬に、
「君の世界と僕の世界が 必ず同じようになるとは限らないけど、もうすぐだよ」
と告げる。
「もうすぐ?」

もうすぐ何が起こるのか――を、当然、15歳の瞬は知らない。
15歳の瞬は、大人の瞬に 鸚鵡返しに尋ねてきた。
同じ世界のことであるなら、これから起きる出来事を、未来の人間が 過去の人間に教えることには問題があるのかもしれないが、瞬が経験してきた事柄が、これから彼の経験する未来の出来事と全く同じものになるとは限らない。
二人の瞬が生きている世界は、異なる世界なのだ。
だから、瞬は、自分たちのケースを、あまり躊躇なく 彼に知らせたのである。

「僕の世界では、氷河が生死にかかわる大怪我をして、僕が小宇宙で氷河を治してあげたの。そしたら、例によって例のごとく、氷河がそのことに大袈裟に感激して――」
瞬が“例によって例のごとく”という副詞を用いたのは、十二宮における天秤宮でのことが念頭にあったからだった。
言ってしまってから、異世界の瞬が自分と同じ経験をしているとは限らないことに気付く。
が、異世界の瞬は、そのフレーズに引っ掛かりを覚えた様子は見せなかった。
異世界での青銅聖闘士たちの戦いが どんなものだったのかは知りようもないが、彼の世界の氷河も 感激家で情熱的なのは同じようだった。

どこの世界でも感激家で 情熱に流されやすいらしい氷河が、声だけは冷静に聞こえる いつもの調子で、瞬の説明の結論部分を引き受け、引き継ぐ。
「言葉では その感激をうまく伝えられないから、行動で示したんだ」
氷河自身は 親切心から、瞬の事情説明の続きを口にしただけのつもりだったのかもしれないが、瞬には それが自己弁護のための こじつけのように聞こえたのである。
感激や感謝の気持ちを 言葉で うまく伝えることができなくても、アテナの聖闘士には小宇宙という便利なツールがある。
氷河は あの時、そのツールの存在を わざと無視したのだ。

氷河の修辞に修正を加えようとした瞬を止めたのは、
「僕の世界の氷河は、そんなことはしません……」
という、異世界の瞬の力ない呟きだった。
それを 奥手な人間の経験不足による誤認と解した瞬は、氷河の発言の訂正より 若い瞬への忠告を優先すべきだと判断し、その判断を実行に移したのである。
「僕も、あの時までは そう思っていたよ。氷河を紳士だと思っているなら、それは誤解だよ。氷河に油断しちゃだめ」

その誤解と油断が、結果的に良い方に転んで、今の二人の幸福があることは承知している。
だから 瞬は、真顔に 透明な笑顔を重ねて、異世界の瞬に忠告した。
アテナの聖闘士になら、瞬の真意は感じ取れるはず。
実際、十代の瞬は、それを感じ取ったのだろう。
バルゴの瞬とアクエリアスの氷河が 今 とても幸福でいることを感じ取ったから、彼は、一層 暗い表情になったのだ。
「……」
何か よくない“感じ”がする。
瞬は、笑顔を消して、口をつぐんだ。

「おまえの氷河は――」
氷河が、今度は 自己弁護のためではなく 瞬のために、瞬に代わって尋ねる。
“若い”というより“幼い”と表した方が正しいのかもしれない異世界の瞬は、この世界の氷河の言葉を遮った。
問われるのが つらかったのか、答えるのが つらかったのか。
ともかく、彼は 氷河の質問を遮り、逆に氷河に尋ねてきた。
「氷河は、僕のことを好きだったんでしょうか」
過去形。
瞬の“嫌な感じ”は、“嫌な推測”として形を成し始め、“嫌な推測”が“確信”という姿に変わる前に、異世界の瞬は、事実として それを氷河と瞬の前に提示してきた。

「僕の世界の氷河は死にました」
「あ……」
そんな世界があり得るのか。
瞬は 息を呑んだ。
自分が幸福であることが、ひどく残酷なことであるように思える。
「僕を庇って」
氷河の腕に抱きかかえられているナターシャは、氷河の肩を枕にして眠りに落ちている。
「それは、“氷河”には最高の死に方だな」
氷河が動じた様子を見せずに そう告げたのは、それが 自分のことではないからではなく、自分のことだからこそ――だったろう。






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