「あの戦場は、冥界のコキュートスより冷たい世界だった。まるで世界がフリージングコフィンの中に閉じ込められたみたいに」
異世界の瞬の声は、おそらく その戦場よりも 冷え切っていた。
「少し 前から、兄さんの小宇宙が感じられなくなっていて――多分、あの時、僕は、十二宮戦での天秤宮の氷河と似た状態になっていた――生きることも 戦い続けることも諦めかけていた。そこに熱い小宇宙を持った人がやってきて――僕を助けようとしてくれたんです。僕は、それを兄さんだと思った。アテナの敵が、憎悪の嵐を吹き荒れさせていて、僕は五感がすべて 働かなくなっていたから。目も見えなくなってしまっていたから。僕は、小宇宙しか感じ取れないようになっていて――」

小宇宙が熱く燃えていた。
あれほど熱くて、攻撃的な小宇宙を、兄さん以外の人が持っているなんて、そんなこと、僕には考えられなかった。

あの小宇宙は、僕が傷付いていることに憤っていた。
燃え盛り、うねり、苛烈な爆発を繰り返す炎の塊りのように。
あの小宇宙は、僕が幸福であることを願っていた。
永遠に冷めることなく、熱く燃え続ける溶岩のように。
そして、あの小宇宙は、僕を愛していた。
大きく燃え上がり、一瞬で燃え尽きても悔いることのないような激しさで。

だから、僕は――。


「だから、僕は、その人を兄さんだと思った。僕に とどめを刺そうとしていた敵の攻撃が、僕から その人に向かったのがわかった。僕を助けるために、その人は 敵の力を すべて我が身に引き受けて、そして、敵の憎悪の力を上回る小宇宙で、その敵を倒した」
異世界の瞬の声は、冷たく凍りついているのに、同時に 熱さのせいで震えていた。
乾いた涙としか言いようのない涙が、その声を震わせている。

「敵の憎悪の嵐が消えて、代わりに僕を助けてくれた人の熱い小宇宙が、もっと強くて 激しい嵐を起こして、僕が五感を取り戻せないようにした。僕は、僕を傷付け 命を奪おうとしていた敵への怒りのせいで、兄さんは 自分の小宇宙を制御できなくなっているのだろうと思った。だから、僕は言ったんです。『僕は、もう大丈夫だよ』って。『ありがとう、兄さん』って。そして、意識を失った」

“異世界”は、完全に同じものではないから“異”世界である。
異世界の瞬が経験した戦いを、“この世界”の氷河と瞬は経験していなかった。

「僕は知らなかった。ううん、知っていたけど、あれがそうだとは思わなかった。冷たすぎるものを、人は熱く感じるんだってこと。氷河は、聖闘士である僕が 熱さと冷たさの区別がつかなくなるくらい小宇宙を燃やして、僕を救おうとしてくれていたんだ。――僕が意識を取り戻した時、そこに倒れていたのは兄さんじゃなく氷河だった。そうして、僕は、『ありがとう、兄さん』が、氷河に告げた最後の言葉になったことを知った」
「……」
さすがの氷河も、それを“氷河には最高の死に方”だと言うことはできなかったのだろう。
だから、彼は無言でいた。
ナターシャを抱いて 二人の瞬の前に立っている氷河の瞳が 冷たく燃えている。

「僕は、やり直したい。あの戦い、あの時間を、もう一度 やり直したい――やり直したい。僕自身の力で、あの敵を倒したい。あの時、僕は もっと小宇宙を燃やせたはず。今なら――今の僕なら、氷河を死なせないために、あの時の僕より はるかに強くなれる。あの敵を、僕の手で倒したい。それが無理なら、せめて『ありがとう、氷河』って……。氷河に『ありがとう』って……。あんな馬鹿な言葉が、氷河への最後の言葉だなんて、ひどい……ひどすぎる……」
“ひどい”のは、彼が彼の氷河に告げた言葉そのものなのか、それとも その言葉を口にした彼自身なのか。
乾ききっているようだった異世界の瞬の瞳から、はらはらと涙のしずくが零れ落ちる。
つらい事実を言葉にして 外に出したことで 彼は彼の感情を取り戻したのだと 瞬は思ったのだが、そうではないことに 瞬はすぐに気付いた。

彼の心は まだ、自分を憐れむことができるほど立ち直れてはいない。
彼の涙は、彼の身体が――彼の乾いた瞳が――乾いていることに耐えられなくなって、悲鳴の代わりに作り出した涙でしかない。
彼の心はまだ、“ひどい”ことを悲しめるところまで 力を取り戻すことはできていないのだ。
それでも“瞬”は――地上の平和を守るために戦うことを第一義とするアテナの聖闘士である瞬は――生き続け、戦い続けなければならなくて――。

“あの時”を“やり直したい”という思いが、彼を この世界に運んだのだろうか。
どれほど やり直したいと願っても やり直すことは不可能なことだから、過去ではなく、未来――その過ちを犯さなければ至っていたかもしれない異世界の未来に、彼は やってきたのか。
氷河を失った瞬の後悔は それほどに深く強く、その後悔が、クロノスの力を借りずに時空を超えてしまうほどの力を、この瞬に生ませた。
神ならぬ身の人間が持つ力としては驚異としかいいようのない その力は、氷河の死によって得た力なのだ。
何という皮肉だろう。
これほどの力が“あの時”にあれば、この瞬は 彼の氷河を失わずに済んだのに。

「死んだら終わりなのに――。別の世界、別の時の流れの中で、やり直すことができたって、それは やり直した紛い物でしかないのに。それでも、やり直したいと願わずにはいられない。僕は馬鹿だ……馬鹿だ……」
彼が せめて、自分自身ではなく 運命を憎むことのできる人間だったなら。
“瞬”という人間に そんな器用なことはできないと、瞬は その無理を願ってしまっていた。
“瞬”という人間に そんな器用なことができるわけがないと、他ならぬ“瞬”である瞬には わかりすぎるほど わかっていたのに。

「やり直すことなんかできない。やり直すことはできないんですね。もし そんなことができるのなら、僕は過去に行っていたはずだ。未来に来るなんて――」
しかも、こんな皮肉な未来に。
彼が どんなに足掻いても、もがいても、決して辿り着くことのできない、こんな未来に。
彼を ここに運んだのがクロノスではなく彼自身なのだとしたら、彼はいったい何を求めて ここに来たのか。
自分には手に入れることのできない幸福を目の当たりにして、自分を憐れむことができるようになるためか。
あるいは、より一層 自分を苦しめることで、自分を罰するためなのか。

乾いた瞳を守るためだけに 虚ろな涙を流し続けている幼い瞬を、瞬は抱きしめてやることができなかった。
それが“瞬”だから――それが自分だから、瞬は 彼を抱きしめ 慰めてやることができなかったのである。
悲しみに打ちひしがれている人を慰め力付けること。
それは、いつもなら、“瞬”の仕事である。
しかし、“瞬”には“瞬”を甘やかすことができないので――今日は氷河が瞬の代わりを務めてくれた。
ナターシャを起こしてしまわないように 低い声で、氷河が 異世界の瞬に告げる。

「おまえは やり直したいようだが、おまえの氷河は そんなことを望んだりはしないと思うぞ。俺は後悔しない。俺は大事な人を守り切れない経験だけを重ねてきた男だ。おまえを守ることができたなら、おまえの氷河は 喜んで死んでいったはずだ」
「そんなはずない……! もし そうだったとしても、僕は そのことに気付かず、『ありがとう、兄さん』って……。氷河が喜んでいたはずがない」
「それは、俺がどれほど おまえを愛していたのかを、おまえが知らないからだ。俺が どれほど卑怯な男なのかを、おまえは知らない」
「え……」
なぜ ここで“卑怯”などという言葉が出てくるのかが、異世界の瞬には わからなかったようだった。
瞬にも――この世界の幸福な瞬にも――わからなかった。
卑怯な氷河が、彼の言葉を続ける。

「『ありがとう、氷河』と言えなかったことで、おまえは永遠に俺に負い目を負ったまま、俺を忘れることができなくなるだろう。俺は、おまえにとって 永遠に過去の人間にならない。そして、俺は おまえに、『俺のことを忘れて 幸せになってくれ』なんて殊勝なことを考える男じゃない。『俺を永遠に忘れないでいてくれ』と望む男だ。おまえの世界の状況は、俺には 願ったり叶ったりの状況だ。おまえが 俺の死を負い目に思うことはない。それは困る」
「……」
負い目を負ったままでいてほしいと言ったり、負い目に思われては困ると言ったり。
氷河の理屈が支離滅裂なのは今に始まったことではないが、今日は その支離滅裂に更に拍車がかかっている。

あげく、
「そんな男の思惑通りになるのはよくない。おまえは、そんな我儘な男のことは さっさと忘れて、別の恋を探すことだ」
――である。
異世界の瞬は、一瞬 キツネにつままれたような表情になり、支離滅裂な氷河の顔を見上げて、二度三度と瞬きをした。

それが いかにも氷河らしい、氷河なりの優しさなのだということは、瞬には すぐにわかった。
異世界の瞬にも わかってしまったらしい。
彼は 再び 瞼を伏せ、その唇で 小さな呟きを作った。

「氷河さん、優しいんですね」
彼の氷河も優しかっただろう。
誰が気付いていなくても、彼は――“瞬”は――気付いていたはず。
亡くなってしまった人は悪人でいてくれた方が、残された者には つらくないのに。

氷河が、
「おまえ、まだ子供のくせに、やっぱり瞬だな。俺を優しいなんて勘違いしているのは、瞬くらいのものだ」
と言ったのは、異世界の瞬を 少しでも つらくなくするためだったろう。
そして、瞬が、
「氷河が優しいことは、みんなが知ってるよ」
と言ったのは、異世界の氷河が どんな人間であったとしても、“氷河”を失った“瞬”の悲しみが変わることはないことというが わかっているから。

氷河が優しい男だったのか、そうではなかったのか。
そんなことは どうでもいいことなのだ。
“瞬”には。
そして、おそらく“氷河”にも。
“氷河”にとって大事なことは、彼が瞬を愛していること。
その事実を瞬が知っているか知らないのかということさえ、“氷河”にとっては あまり重要な問題ではない。
“氷河”にとって何より大事なことは、“氷河”が“瞬”を愛しているという、その事実だけなのだ。
“氷河”が生きているなら、その事実を瞬に知っていてほしいと望んでいたかもしれないが、死んでしまった今となっては――。
氷河は むしろ、『知っていたとしても、忘れろ』と言うかもしれない。

“氷河”は、見ようによっては、ひどく我儘な男なのである。
大事なのは、自分が 誰かを――母を、師を、ナターシャを、瞬を――愛していることだけ。
自分が愛されているかどうかということは、二の次三の次。
自分が愛していることが、何より重要。
その愛への報いは必要不可欠のものではない。
そんな氷河だから、瞬は氷河を愛していたし、異世界の瞬が 氷河との時間を やり直したいと望む気持ちも、痛いほど わかった。






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