「俺は、カミュとは血がつながっていないんだ。カミュは生粋のフランス人貴族。若い頃、ロシアの大貴族の家に、最高のフランス語を教えてほしいと乞われて、数ヶ月間 ロシアに滞在していたことがあった。その頃の俺は母を亡くしたばかりの貧乏な孤児で、いろいろあって死にかけていたところをカミュに拾われたんだ。俺の父親だか祖父だかは日本人らしい。まあ、ひねくれて可愛げのない孤児を育ててくれたカミュには感謝しているし、恩返しもしたいんだが――」 自分のことを瞬に知ってもらいたいと思うのは、瞬と自分の間に友情を育みたいという願いがあるからなのか。 だとしたら――だとしても、これほど美しい少女に 友情しか求めないことは失礼に当たるのではないか――。 自分で自分の心を掴み切れないまま、自身の身の上を語った氷河に、瞬から、 「恩返しで、好きでもない人と結婚するの」 という鋭い声が返ってくる。 質問の形をとってはいるが、瞬の声音は完全に罪人を責める者のそれ。 身の上話をして 責められることになるとは思ってもいなかった氷河は、瞬の難詰の鋭さに少々――否、大いに面食らった。 それが嫌だから、氷河は、ドービニェ家のサロンにいるという苦行からエスメラルダを解放してやったのに。 たった今も、大金持ちの令嬢の機嫌を取ろうとせず、自身の身の上話などという色気のない話題を提供していたというのに。 「なぜ そういう話になるんだ」 瞬の不機嫌に、本気で得心がいかず、氷河は瞬に反問した。 瞬から、 「何とかいう夫人のサロンでエスメ――僕に紹介されたということは そういうことでしょう」 という、筋が通っているような 通っていないような、微妙な答えが返ってくる。 その事実に、瞬は引っかかっているらしい。 だが、その事実は ただの事実でしかない――本質が無視されている。 「おまえの印象に残らないくらい、ろくに話もしなかったろう。俺の母に会ったこともないくせに、日本の大金持ちの令嬢は 俺の亡くなった母より美しいと カミュが言うから、俺は カミュの主張を否定するために、おまえに会いに行ったんだ!」 結局、その目的を果たすことはできなかったが――という“事実”を氷河が口にしなかったのは、その“単なる事実”を 瞬に悪い方に勘繰られることを避けるため――単なる事実の報告を、大金持ちの令嬢への機嫌取りの言葉と思われる事態を避けるためだった。 そんなことで、瞬の機嫌を悪くしたくない。 氷河の用心は、功を奏したようだった。 「ああ、そういうこと」 瞬が、腑に落ちたように笑顔になる。 その笑顔を見て、逆に 氷河は機嫌を悪くした。 “そういうこと”とはどういうことなのか。 十中八九、瞬は氷河をマザコンと認定したのだ。 だが、それは事実と異なる。 「そういうことなら、僕、あなたが あなたのお母様への愛を貫くことに全面的に協力します。お友だちになりましょう」 瞬の決めつけが不愉快でならなかった氷河は、瞬の誤った認識を正すために 攻撃に転じた。 「そのつもりだったんだ。実際、ドービニェ家のサロンで会った おまえは生気のない陶器の人形のようで、全く そそられなかった。だが、サロンで澄ましていない おまえは可愛いし、気取りがなくて温かい。先日 サンジェルマン通りで再会した時には 妙に びくびくしていて、日本人は 俺みたいな見てくれが嫌いなのか、でなければ 恐がっているのだと思っていたんだが……」 「そんなことはありません! 誰の目で見たって、氷河は綺麗ですよ!」 「……」 マザコンだから安心と考えて 気が大きくなったのか、瞬が真正面から氷河を褒めて(?)くる。 瞬に 力強く断言されて、氷河は 驚き、目を剥いた。 鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった――おそらく。 「なんです」 極東の島国からやってきた異邦人を無言で まじまじと見詰める氷河の態度を奇異に思ったらしい瞬が、少し身構えて、上目使いに 彼の顔を見上げてくる。 平和の象徴である鳩に 豆鉄砲を射かけるような いたずらっ子なのに、瞬の その様子は 甚だしく可愛らしかった。 「いや、そう言ってもらえるのは嬉しくないわけではないんだが……。ドービニェ家のサロンで初めて会った時には、俺の顔など ろくに見てもいないようだったし――。おまえのように綺麗な子に そんなことを言われると、嫌味か皮肉に聞こえるな」 そう言ってしまってから、氷河は気付いたのである。 自分が 実はずっと、この いたずらっ子の可愛らしさを褒めたくて仕方がなかったのだということに。 「僕は、フランス人が蔑んでいる東洋の蛮族です」 瞬は むっとした顔になったが、氷河は それを無視した。 「そのようだな。実に綺麗な肌だ。その上、瞳が澄んでいて――おまえの瞳は、正しいことしかしたことのない人間の瞳。嘘をついたり、人を騙したりしたことのない人間の目だ」 「氷河はあるの。嘘をついたり、人を騙したことが」 「……」 瞬は、姿や仕草が可愛いだけでなく、頭もいい。 さりげなく 話を逸らされてしまったのだということには気付いたが、氷河は その話に乗った。 氷河は もう何でもよかったのである。 瞬の この可愛らしい顔を見ながら、瞬と言葉を交わしていられるのなら。 「貧しい孤児が生き延びるためには必要だったんだ。実際より強い振りをすることや、実際より弱い振りをすることが。カミュに拾われて 食うに困らなくなるまでは、俺は 本当のことなど口にしたことがなかった。他人に舐められないために、他人の同情を引くために、嘘ばかりついていた」 「あ……」 大富豪の令嬢とはいえ、妾腹の子。 瞬もまた それなりに つらい経験をしてきたのだろうが、彼女は完全な孤児であったことは、これまで一度もなかったのだろう。 氷河の告白を聞いた瞬は、まるで自分が 心無い者たちに傷付けられたように つらそうな目になった。 幸い、瞬は、ここで憐れみの言葉を口にするような無神経は持ち合わせずにいてくれたが。 「買いかぶらないでください。僕も嘘をついたことはあります」 「本当か。どんな」 「どんな……って、か弱くて控えめで淑やかな女性の振りをしていることは、ひどい嘘でしょう? 本当は 男の人の恰好をして 一人で街に繰り出していくような、すごいお転婆なのに」 それは 誰も傷付かない――傷付けない、害のない嘘である。 おかげで 素のエスメラルダと知り合うことのできた氷河には、それは“いい嘘”でさえあった。 「その方がいい。健康的で、親しみやすいし、おまえは話も面白い」 「僕、面白い話なんかした覚えはありませんけど」 「面白い話をしていない? それは、なかなか気の利いた嘘だ」 自分が“面白い”人間だという自覚がないらしい瞬を、氷河は笑った。 なぜ笑われるのか わからないという顔をする瞬も可愛らしい。 氷河は、極東の島国からやってきた男装の美少女が すっかり気に入ってしまっていた。 いつも差別される側の人間でいたせいか、瞬には全く差別意識というものがなかった。 人種、民族、外見、地位、身分――そういったものに頓着することなく、すべての人間に 同じ人間として、等しく優しい目を向ける。 フランスや日本で そういった姿勢を保つには、強さが必要だったろう。 強く優しく美しい――真善美。 皮肉なことに、東洋人の瞬は、欧州人にとっての理想の人間の具現たる存在だった。 そして、被差別側にある人間同士の傷の舐め合いというのではなく――単純に、純粋に、氷河は 瞬と一緒にいることが快く、楽しかった。 政略結婚の当事者になりたくないという理由もあるのだろうが、カミュが政略結婚を企てた目的を知らされると、瞬は 侯爵家のことも真剣に考えてくれた。 「政略結婚以外の別の方法で、ヴェルソー侯爵家の財政を立て直し、尊厳を守るプランを考えましょう」 と言って、至って前向きに。 「日本でも、フランスの葡萄酒は人気があるんです。日本人好みの味を研究するのは時間がかかるから、もっと お手軽に――ラベルの一部を日本語表記にして、フランス人が日本人のために作ったお酒として売り出せば、プライドが高い癖に 劣等感の塊りの日本人は、プライドをくすぐられて 飛びつきますよ。取引先を一つに絞るのは賭けですが、氷河の葡萄畑は大規模ではないので、その賭けもできる。うまくすれば 日本の市場を独占することもできます。重要なのは売り込み方。皇室の方々や 軍部の人気のある将軍あたりに贈って、いい感触のお言葉をいただくんです。それだけで、日本人は食いつきますよ」 と、祖国フランスを熱愛するカミュが聞いたら卒倒しそうな大胆な策を提案してくることもあった。 カミュは卒倒するだろうが、それは 政略結婚より はるかに戦略的で男らしい対策である。 そんな策を思いついておきながら、 「僕、お酒が飲めないんです」 なのだから、愉快の極み。 控えめで大人しい日本女性の(振りをしているらしい)瞬は、フランス娘より はるかに過激で 刺激的だった。 人や国や社会を批判することはあったが、根本が優しいので、どんな批判も批評も不快にならない。 ワインは飲めず、エスプレッソは苦すぎると言いつつ、だが、フランスのショコラは気に入ったという瞬を、氷河は 毎日のように あちこちのカフェに連れ出し、瞬は 毎日 そんな氷河についてきてくれた。 |