そこは、神々が定めた世界の理に反逆した神を封じ込めるための牢獄。 冥界より更に下方にあり、天と地の間にある距離と同じだけ、大地より低いところにある無窮の異界。 深い霧が立ちこめ、神々も恐れ 忌み嫌う澱んだ空間――タルタロス。 そこに閉じ込められた者は、神ですら逃げ出すことはできない。 大神ゼウスを抹殺しようとしたティターン神族たちが幽閉され、その監視をしているのは大神ゼウスの伯父であるヘカトンケイルたち。 取るに足りない人間の身で、神を封じるための牢獄タルタロスに幽閉されることを 光栄に思うがいい。 瞬にそう言ったのは、髪と瞳の色だけが異なる同じ顔を持った二柱の神だった。 金色の髪と瞳は、眠りを司る神ヒュプノス。 銀色の髪と瞳は、死を司る神タナトス。 本来なら、ここには、人間のために神々の理を踏みにじった女神アテナが封じ込められなければならないのだが、偉大な女神アテナを 人間ごときのためにタルタロスに落とすわけにはいかない。 天上界から知恵と戦いの女神アテナの存在が失われることは、神々の権威を損なう行為でもある。 それゆえ、オリュンポスの神々は、アテナの犯した罪を人間に贖わせることにしたのだ――と、彼等は言った。 「アテナは偉大な神だ。神々に対して戦いを挑むことも許されないことではない。だが、神の恩寵によって生かされている身の人間風情が 神に盾突くことは許されない」 暗く冷たく深い霧が立ちこめる牢獄で、ヒュプノスが告げた その言葉に、瞬は背筋を冷たく凍りつかせたのである。 『人間が 神に盾突くことは許されない』 神々は、神に盾突いた人間たちに どんな罰を科そうとしているのか。 どれほど楽観的に考えようと努力しても、瞬の中に楽しい考えは浮かんでこなかった。 「神々は、人間を――人間が暮らす地上世界を滅ぼすつもりなの……」 震える声で瞬が呟いた不安を、だが、意外にも銀色の神は否定してくれた。 同じ神だというのに、アテナとは全く違う、慈悲も高貴も感じられない傲慢な口調で。 「地上世界で見苦しく蠢いている人間共は、塵芥も同然。神の力をもってすれば、いつでも一瞬で消し去ることができる存在。わざわざ罰するまでもなく、気が向いたら消し去ればいいだけだ。問題はアテナの聖闘士――偉大なる神に逆らい、傷を負わせることまでしてのけた アテナの聖闘士たちだ」 アテナの聖闘士たちは神に逆らったのではない。 少なくとも、アテナの聖闘士たちの戦いの目的は、神に逆らうことではなかった。 ただ 人間にも生きる権利はあると思っただけ。 神の力で滅ぼされようとしている人間の命を守ろうとしただけ。 人間が生きていたいと望むことは罪だと、神々は言うのだろうか。 強大な力を持つ神には、非力な人間の命を踏みにじる権利があるというのか――。 瞬が、銀色の神に そう問わなかったのは、彼なら ごくあっさりと『その通りだ』という答えを返してきそうだったから。 実際 彼は 人間には持ち得ない力を持ち、こうして瞬を地下の牢獄に閉じ込めている。 ここは、権利の有無より 力の有無こそが 重い意味を持つ――力がすべてを決する――世界なのだ。 「みんなも捕えられてるの」 その神の力によって、仲間たちも同じ目に会っているのか。 星矢たちも、こんなにも暗くて寒い世界に封じられているのだろうか。 タルタロスが そういう場所なのか、それも 神々の力によるものなのか、ここでは仲間たちの小宇宙が全く感じられない。 その事実が、瞬を不安にした。 そんな瞬の不安を、今度は金色の神が、銀色の神よりは穏やかな声で打ち消してくれた。 「タルタロスに封じられたのは、おまえだけだ。他の者たちは、その罪を許された。いや、罰する価値もないと見なされた――と言った方が正しいか。おまえの仲間たちを含む すべての人間の罪と罰は、おまえ一人が負うことになった。それが神々の決定だ」 では、星矢たちは無事でいるのか。 仲間たちが、少なくとも この牢獄に囚われてはいないらしいことを知らされて、瞬は心を安んじた。 しかし、すべての人間の罪と罰をアンドロメダ座の聖闘士が一人で負うことになった――というのは どういうことなのか。 まさかギリシャの神々が、彼等への反逆者の一人に、キリスト教の救世主イエスの役を演じさせようとしているわけではないだろう。 ヒュプノスが語る“神々の決定”の意味と意図が、瞬には理解できなかった。 |