「すべての罪と罰を僕が負う――というのは……僕が最も罪深い人間だから?」
他に どんな理由があれば、そんな決定が為されるのか。
瞬には 到底 思いつけなかった。
瞬の疑念に、金色の神が首を左右に振ってみせる。
「そうではない。おまえが罪深い人間だからではなく――むしろ、おまえが清らかすぎるから――だろうな」
思いがけないヒュプノスの答えに、瞬は息を呑んだ。
自分を清らかな人間だなどと思ったことはないが、もし そうなのだとしても――そうなのだとしたら、なおさら――“神々の決定”が解せない。
瞬の驚きを気に留めた様子もなく、ヒュプノスが言葉を継ぐ。

「おまえは、人を疑う力があるのに疑わず、我欲なく、自身のためではなく 純粋に人間の存在を守るために、神の力に抵抗した。その気持ちが汚れなく一途で強いものだから――神に敵対する人間として、おまえは最も厄介な存在なのだ」
「……」
何を、この金色の神は言っているのか。
「地上の平和を守るだの、愛の力がどうだのと言っても、大抵の人間は 自分以外の人間を完全に信じてはいない。おまえの仲間たちとて、それは例外ではない。多くの人間は、我欲なく 他者を愛することもしない。だが、おまえはそうではない。おまえのような人間は、他の人間たちに、人を信じる気持ちを呼び起こさせる。希望を抱かせる。夢を見させる。人間は、愛という強い力を持ち、その力は 神の力をも凌駕する――という馬鹿げた幻想を、人間に抱かせるのだ。それは罪。何より重い罪なのだ」

馬鹿げた幻想。
それは幻想なのだろうか。
もし それが本当に馬鹿げた幻想なら――決して 実現することのない幻想でしかないというのなら、神々は わざわざ人間を排除する必要はないはず。
瞬は、金色の神の言葉を 真実のものとして受け入れることはできなかった。

「我欲がなく 清らかであることが、災いしたな。それが おまえの罪だ。いや、おまえに罪はないが――おまえこそが罪のない人間だが、おまえは その存在自体が迷惑なのだ。神々にとっては」
「なに、不死の神々と違って、貴様は有限の命をしか持たない人間だ。すぐに死ねるさ」
「……」

眠りを司る神と死を司る神――二柱の神が何を言っているのか、瞬には まるで理解できなかった。
“清らかすぎるから、すべての人間に代わって、アンドロメダ座の聖闘士ひとりが罰せられる”。
“人間に 希望や 愛の力を信じる心を抱かせないために”。
そんなことが――そんな理のないことが まかり通っていいのだろうか。
神々は、人間たちが汚れているから、人間たちが世界を汚すから、汚れた人間たちを粛清しようとしていたのではなかったのか。

瞬は、神々の考えが理解できなかった。
自分だけでなく、誰にも、得心できないだろうと思う。
そして、神々は 本当に そんな理も節もない“馬鹿げた”決定を下したのかと疑った。
そういう眼差しで、目の前にいる“神々”を見詰めた。
残念ながら、金銀の神たちは、瞬の疑念を晴らしてやろうという親切心の持ち合わせのない神々のようだったが。
彼等は ただ、“神々の決定”だけを、瞬の前に提示した。
「おまえの命一つで、おまえ以外のすべての人間が 神々の罰を受けずに済む。すべての人間の命が――おまえの仲間たちの命も――おまえ一人が犠牲になることで救われるんだ。安心して死んでいくがいい。これほど アンドロメダ座の聖闘士に ふさわしい生き方と死に方は あるまい」
「……」

そんなことを言われても、瞬は彼に素直に首肯することはできなかった。
そもそも瞬は、自分がいつ、なぜ、誰によって、どんなふうに ここに運ばれ、閉じ込められたのかを 憶えていなかったのだ。
瞬が憶えているのは、自分がアテナの聖闘士であること、アテナの聖闘士とは 地上の平和を守るために戦う者であること、そして、アテナの聖闘士の務めを果たすために、これまで自分が戦ってきた戦いの つらさと悲しさだけだった。

アテナの聖闘士同士、人間同士の戦いがあったことは憶えている。
十二宮での戦いは、正しく つらく悲しい戦いだった。
死なずに済んだはずの命が 幾つも失われた、悲しい戦いだった。
その点では、アスガルドの神闘士たちも同じだったろう。
アスガルドの主神オーディーンの地上代行者ヒルダを操っていたのは、ギリシャの海皇ポセイドン。
海皇ポセイドンに従う海将軍たちもまた、人間だった。
では、その戦いでアテナの聖闘士たちが最終的に勝利したことが、オリュンポスの神々の逆鱗に触れたのか。
人間であるアテナの聖闘士たちの勝利が、大神ゼウスの兄弟であるポセイドンの権威を揺るがし、それが神々の目には、人間の傲慢、神への不敬と映り、神々の怒りを買うことになったのだろうか。
そして、もしかしたら 神々は、神の権威を損なうほどの力を持つ人間というものに対して、危機感を抱くことになったのか。

金銀の神たちが言う“人間の罪”に、瞬には それくらいしか思い当たることがなかった。
それが罪だとして――神々にとっては 罰せられるべき罪なのだとして――その罪を贖うために、自分は 金色の神が言うように死ぬべきなのだろうか。
神の怒りを買ってしまった人間には、それも 一つの選択肢ではあるのだろうが――。
瞬は、アンドロメダ座の聖闘士が この牢獄に囚われたことを知った仲間たちが、自分を助けにくる可能性を考えた。

人間が犯した罪を 己が身をもって贖うなら ともかく、その罪を仲間一人に押しつけて 自分だけは安全圏にいようなどということを考えそうにない、まっすぐで優しい心を持つ仲間たち。
事情を知れば、彼等は十中八九、囚われの仲間を救おうとするだろう。
そのために――アンドロメダ座の聖闘士を救い出すために――彼等は傷付くことになるかもしれない。
その犠牲を考えると、自分は早く死んだ方がいいのかもしれない。
そうすれば、瞬の仲間たちは アンドロメダ座の聖闘士を救出するために戦う必要がなくなるのだ。

とはいえ、その場合は、アンドロメダ座の聖闘士が既に死んでいることを 仲間たちに知らせる必要がある。
この二柱の神々は、その手間を取ってくれるだろうか。
瞬は、それは あまり期待できないような気がした。
彼等は人間のために行動することを嫌悪しそうだし、塵芥に等しい存在である人間を 一人でも多く消し去りたがっているように見える。
『すべての人間の罪をアンドロメダ座の聖闘士一人に負わせ、タルタロスに幽閉する』というのが“神々の決定”だから、彼等は 瞬をこの牢獄に閉じ込めたにすぎない。
アンドロメダ座の聖闘士の命を奪うことは、神々の決定に沿ったことではないから。
アテナの聖闘士を すべて消し去りたい――というのが、彼等の真の望みであるように、瞬には思われた。

「このタルタロスは、不死である神々を閉じ込めるための牢獄。ここにいる間は、人間もまた、神々と同じように 時の影響を受けなくなり、生物学的に死ぬことはない。望めば すぐに、消滅することはできるが」
彼等は、アンドロメダ座の聖闘士が 自発的に死を選ぶことを期待しているようだった。

「仲間たちが助けに来るなんて、阿呆な夢は見ない方がいいぞ。来るわけがないだろう。人間というやつは、誰もが我が身の安全が第一。自分の命が いちばん大事なんだ。貴様以外の人間は お咎めなしという神々の決定は、貴様の仲間たちにとっては好都合。神々の有難い決定に、貴様の仲間たちは喜んで従うさ。仲間たちのためにも、貴様自身のためにも、貴様は さっさと くたばった方がいいんだ」
銀色の神が、人間を侮りきった口調で そう言い、
「同じことを、私も 心から忠告する」
金色の神は、親切な口調で そう言う。
口調がどうであれ、彼等は 同じことを瞬に求めていた。
“諦めること”を。
人間の誠意、愛、友情――すべてを諦めることを。

囚われたアンドロメダ座の聖闘士を、仲間たちが助けにくるわけがない。
仲間たちを信じても無駄。
仲間たちの救出を期待しても空しいだけ。
人間は誰も、我が身が大事。
彼等は そう言って、アテナの聖闘士たちの信頼と友情を貶めていた。

助けに来ない仲間たちだったら どんなにいいか――と、瞬は思ったのである。
心の底から、そう思った。
だが、アンドロメダ座の聖闘士の仲間たちは 必ず来るのだ。
暗い牢獄に囚われた仲間を助け出せると信じて。
瞬には それがわかっていた。

その時、救出しようとしていた仲間が 自ら死を選んでいたら、アンドロメダ座の聖闘士は 仲間の友情と信頼を裏切ったことになる。
仲間を信じていなかったことになる。
アンドロメダ座の聖闘士が 仲間たちを信じているように、仲間たちも アンドロメダ座の聖闘士を信じているだろう。
彼等の信頼を裏切ることはできない。
たとえ死んでも――命の最後の瞬間まで、自分は仲間たちを信じていなければならないし、実際に 信じていることしかできないだろう――。
そう思うから、瞬は 生きるしかなかった。
仲間たちの信頼を裏切らないために、瞬は、仲間たちの救出を信じて 生き続けなければならなかったのだ。

「僕は、消滅を願ったりしません。僕は、生きます」
瞬の静かな断言を聞いた銀色の神は、
「神々も認めるほど 清らかな心を持つ人間でも、自分の命は惜しいか」
という軽蔑の言葉を吐き出し、軽蔑の視線を瞬に向けてきた。

もちろん、命は惜しい。
仲間たちが救おうとしてくれている自分の命が無価値であっていいはずがない。
アンドロメダ座の聖闘士が なぜ生き続けようとするのか、その理由と心を彼等に理解してもらおうとは思わない。
言葉を尽くして説明しても、彼等には理解できないだろう。
人間と人間の間に結ばれた絆や信頼など砂上の楼閣も同然、空しい幻にすぎないと決めつけている彼等には。
瞬は、ただ黙って、人の心を信じることを無益無駄と断じる二柱の神を見詰めていた。
そして、神々は、神と神の間の信頼や絆は確かなものだと考えているのだろうかと、そんなことを思った。






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