タルタロスは、神々が定めた世界の理に反逆した神を封じ込めるための牢獄。 冥界より更に下方にあり、天と地の間にある距離と同じだけ、大地より低いところにある無窮の異界。 深い霧が立ちこめ、神々も恐れ 忌み嫌う澱んだ空間。 タルタロスには、温かいもの明るいものが何もなく、寒く暗い。 光がないのだから 朝も昼もなく、光がないから 夜もなかった。 夜というものは、光があって初めて――朝と昼があって初めて――存在するものなのだ。 そんな牢獄の中でも 仲間たちを信じる瞬の心が揺らぐことはなかったが、そんな空間で、瞬の時間の感覚は徐々に おかしくなっていった。 人間は、光のない場所に長時間 留め置かれると、その生活リズムが、36時間の覚醒と12時間の睡眠で構成される48時間周期になる――という話を、瞬は 以前 聞いたことがあった。 そして、完全な孤独状態で 閉鎖空間に置かれた人間は、やがて幻覚や幻聴に襲われるようになるのだ――と。 それは、そういう状況下では、五感から得られる大量の情報を 常時処理することに慣れている脳が、実際には存在しない情報を自らに送り込み始め、そのため 脳に異変が生じるせいであるらしい。 真に孤独な人間は、だから 狂うしかないのだ。 灰色のタルタロスで、瞬は そういう状態に限りなく近付いていただろう。 にもかかわらず、瞬の五感、脳、心が狂わずに済んだのは、皮肉なことに、時折 瞬の様子を確かめにやってくる金銀二柱の神たちのおかげだった。 彼等の存在が、瞬を完全な孤独状態にしなかったから。 その上、彼等は 瞬にタルタロスの外の情報を瞬に与えてくれた――瞬の脳に、処理すべき情報を送り込んでくれた――から。 瞬が閉じ込められているタルタロスにやってくる二柱の神は、時々 地上の光景を空中に映し出して、“今”の地上世界の様子を 瞬に見せてくれたのだ。 地上は滅んでない。 人々はこれまで通りの生活を営んでいる。 瞬がタルタロスに閉じ込められる以前と変わらず、地上世界には光があふれており、聖域も明るい。 瞬がいなくても 世界は平和なのだと、彼等は瞬に知らせてくれた。 「貴様など、いてもいなくても同じ。貴様など最初から存在しなかったように、世界は以前同様に動いているんだ」 彼等は、アンドロメダ座の聖闘士を絶望させるため、その心を挫くために、わざと地上の明るい光景を瞬を見せているようだった。 それが彼等の目的なのであれば、彼等がアンドロメダ座の聖闘士に見せる光景は真実のものでなくてもいいことになる。 彼等が瞬の心を挫くために、偽りの平和を瞬の前に示しているということも考えられる。 その可能性を、瞬は幾度か考えた。 だが、瞬は やがて、彼等が自分に見せている平和は決して偽りのものではないと 判断するに至ったのである。 「星矢たちは? 僕の仲間たちの姿を見せて」 と 瞬が頼んでも、彼等は決して瞬の望むものを見せてくれなかったから。 おそらく、瞬が望むものを瞬に見せると、神々に不都合なことが起こる――アンドロメダ座の聖闘士に希望を抱かせるようなことになる――のだろう。 だから 彼等は、彼等にとって不都合なものを瞬に見せようとしないのだ。 つまり、彼等は彼等にとって都合のいい部分だけを瞬に見せているのであって、彼等にとって都合のいい光景を捏造して見せているのではない――ということ。 彼等は、アンドロメダ座の聖闘士の身を案じている星矢たちや アンドロメダ座の聖闘士を救い出すために苦慮している星矢たちの姿を、瞬に見せずにいるのだ。 彼等は、アンドロメダ座の聖闘士のことを忘れて楽しげに暮らしている偽りの光景を作って、瞬に見せることはせずにいる。 ならば、彼等が瞬に見せる地上の光景は現実に存在する光景なのだ。 そう、瞬は判断した。 地上世界が平和であることは 瞬を喜ばせたが、自分がいない方が地上世界は平和であるように見えることは、瞬の心を千々に乱した。 「人間共は、自分たちが神々に逆らうことの無意味を悟ったんだ。自分たちは虫けら同然の存在だと自覚した。人間共が身の程を わきまえていれば、神々も あえて人間共を滅ぼそうとはしない」 神々の慈悲と寛大を、慈悲も寛大も感じられない冷めた口調で、タナトスが瞬に語る。 アテナの聖闘士の戦いの目的は、地上世界の平和を守ること。 その目的が実現しているのだから、この状況を喜べばいい――と、瞬は自分に言い聞かせた。 もとより、自分が 地上の平和に必要不可欠なものだと思うほど、瞬は思い上がってはいなかった。 仲間たちも、自分一人がいなくなったせいで生きていることができなくなるわけではない。 必要不可欠ではないが、いた方がいい存在。 人は誰もが、誰にとっても、そういう存在なのだ。 もし今、地上世界が本当に平和なのであれば、仲間たちには 自分のことは忘れてほしい。 欠けた仲間を取り戻そうなどと考えず、平和の時を心置きなく楽しんでほしい。 そう願いながら――光も温かさもない牢獄タルタロスで、瞬は切なく吐息した。 |