「大きな嵐が来そうだな……」
エティオピアは海辺の国。雨量は少なく 晴れた日が多いのだが、時折 大きな嵐が襲来する。
エティオピアの王城は、浜辺から相当の距離がある丘の上にあって、海がどれほど荒れようと、水が城に及ぶことはない。
ペルセウスが城の窓の向こうに広がる灰色の海と空を眺めて重く呟いたのは、海と空がたたえている灰色の濃さが、これまでになく大きな嵐の到来を予感させるものだったから。
そして、アンドロメダに教えてもらったアマランダのことが念頭にあったからだった。

ケフェウス王の生前、彼がアマランダと一緒に遊んでいたのは、王城の建つ丘の裾野に広がる 野原だった。
ペルセウスが生まれる以前、そこには多くの民家が建っていたらしい。
彼の母アンドロメダが海獣の生贄に捧げられた時、海獣は 逆巻く大波と共にエティオピアの都に上陸し、その際 その地に建っていた民家はすべて押し流されてしまった。
王女アンドロメダは英雄ペルセウスによって救い出され、海獣も英雄ペルセウスによって倒されたのだが、大波に流された民家の住人たちは内陸に居を移し、その後、その場所に家が建てられることはなかった。
塩を含んだ水に侵された土地は、それから数年間は雑草も生えない不毛の地と化していたという。
その地に やっと花が咲き出した頃、その野原は幼いペルセウスとアマランダの遊び場になっていたのだ。

おそらくアマランダが毎日ペルセウスの部屋に飾っている野の花は、そこで摘まれたもの。
もし 再び その野原が海水に浸ることがあれば、自分は幼い頃に慣れ親しんだ遊び場と、日々 心の慰めにしていたアマランダの花を失うことになるかもしれない。
そんな 良くない考えが、ペルセウスの声を暗く重いものにしたのだった。

既に海の色は 黒と言っていいほど 濃い灰色になり、黒雲の下の海は 大きな波を生み始めている。「アンドロメダ」
ペルセウスがアンドロメダの名を呼んだのは、もしかしたら彼が嵐の気配に怯えているのではないかと、それを案じたから。
名を呼んだのに、すぐに答えが返ってこなかったので――いつも自分の側に控えているアンドロメダが、今は 王の声の届くところにいないことに、ペルセウスは初めて気付いたのである。


ペルセウスが気付くより先に、アンドロメダは その危険に気づいていたらしい。
ペルセウスが城を出て 丘の麓の野原に駆けつけた時、アンドロメダは すぐに城に戻るよう、アマランダを促していた。
「この国の気象のことは よくわかりませんが、この嵐が 尋常でなく大きなものだということは、僕にも わかります。お城に戻ってください。多分、この国では お城が いちばん安全な場所です。ここは危ない。波がここまで来ることがなくても、暴風が――」
「でも、お花を……。ここに咲いている花だけが、私とペルセウス様をつなぐものなんです……!」

アンドロメダの勧めを拒んでいる 長い栗色の髪の娘に、ペルセウスは見覚えがあった。
幼い頃、ペルセウスが この野原で花を摘んでやった少女の面影が、その娘の中に残っている。
が、今は、そんな懐旧の念に浸っている時ではない。
風はいよいよ強くなり、海水なのか雨なのか判別し難い水の粒が、ペルセウスの頬を打ち始めていた。

自分の命と 野の花のどちらが大切なのか。
そもそも こんな危険な場所――風が容赦なく吹き荒れている場所で、たった一人の非力な少女が どうやって野に咲く花たちを守るつもりなのか。そんなことができると思っているのか。
「アンドロメダ!」
ペルセウスがアンドロメダの名だけを呼んだのは、アマランダの無謀への苛立ちを表に出さないためだった。

アンドロメダは、おそらく ペルセウスの苛立ちに気付いていただろう。
だからこそ、アンドロメダは、既に嵐の手に捕まっているような 危険な状況の中で、
「この場所はアマランダさんにとって、とても大切な場所なんですね。自分の命と同じくらい――それ以上に」
と、そんなことを あえてペルセウスに言ってきたのだ。
命より大切なものを持っている人間がいること、その大切なものを守るためになら自分の命を投げ出す人間もいるのだということを、苛立っているペルセウスに知らせるために。
アンドロメダの その言葉で、ペルセウスの中に生じつつあったアマランダへの苛立ちは消えた。
だが、だからといって、この自然の花畑を守るためにアマランダに命をかけさせるわけにはいかない。

アマランダには やはり諦めてもらわなければならない――と、ペルセウスが思った時。
「ここは僕が守りますから」
と、アンドロメダが静かに言った。
アンドロメダが そう言い終わるなり、アマランダの花畑の周囲に、暴風の行く手を遮るような風の壁ができる。
そして、その風の壁は、アマランダの花畑に襲い掛かろうとしていた暴風の前進を完全に止めてしまった。

海から吹き寄せる暴風が アンドロメダの作った風の壁に ぶつかり、行き場を失った暴風は壁に沿って上昇。
おそらく、その暴風は 空の高いところで逆風になり、沖に向かって進み始めた。
嵐が空気の壁にぶつかって海に押し戻されるという信じ難い光景が、ペルセウスとアマランダの前に現出したのである。
「アンドロメダ……おまえは神なのか?」
ペルセウスがアンドロメダに そう問うことになったのは、ある意味では至極自然なことだったろう。

「多分、違うと思います」
記憶を失っているのだから当然のことだが、アンドロメダが自信なさそうに首を横に振る。
「ただ、こうすることができるような気がしただけです」
それは説明になっていない説明だったのだが、ペルセウスは それで得心した。
彼の父である英雄ペルセウスは、人間の女と大神ゼウスの間に生まれた半神。
その息子であるペルセウスは、大神ゼウスの孫ということになっているのだ。
事実だろうが詐称だろうが、神の力に匹敵する力を持つ人間は存在するのだろう。
ペルセウスにとって大切なことは、アンドロメダが その力で嵐を押し返し、アマランダの命と アマランダの命より大切な花畑を守り、嵐の直撃を受けるはずだったエティオピアの都を守ってくれたということだけだった。

アンドロメダが風の壁を作らなければ、嵐の運ぶ波と暴風は アマランダの花畑を蹂躙し、エティオピアの都を飲み込んでしまっていただろう。
「アンドロメダ、ありがとう」
そして、アンドロメダが嵐を押し返していなければ、ペルセウスは、
「アマランダ。君にも。いつも花をありがとう」
と、幼馴染みの少女に礼を告げることもできなかったのだ。
アンドロメダの力に驚き 呆然としているようだったアマランダも、瞳を潤ませて、彼女の命より大切な花畑を守ってくれたアンドロメダに幾度も『ありがとう』を繰り返していた。

ペルセウスは、その時には、まさか祖母カシオペアが、
「あの者――アンドロメダは、邪神の手先なのではないか」
などということを言い出すとは思ってもいなかったのである。
どうやら アンドロメダが嵐を押し戻す様を見ていた者がいて、ペルセウス王のそばにいる少年は 尋常の人間ではないという噂を広めたらしい。
あの少女のような少年は、神か、神に準ずるものであるに違いない――と。

アンドロメダの力が もたらした結果を思えば、最初は それは好意的な――好意的でなかったとしても、畏敬の念を伴ったものだったろう。
それを、カシオペア王大后は、一足飛びに邪悪な力と決めつけてしまったのだ。
だが、それは カシオペアにとっては、極めて理に適った当然の判断なのである。
彼女には、ゼウスもポセイドンも――神はすべて邪神なのだから。
彼女は、神の横暴のせいで 自分はひどい目に会ったと思っている。
娘アンドロメダを失ったのも、すべては神のせい。
決して その責が自身にあるとは考えない祖母に、ペルセウスは嘆息することになった。

「アンドロメダは むしろ、この国を守るために遣わされたエティオピアの守護神だと思いますが。アンドロメダは この国を嵐から守り、その優しさと美しさで 私の心を安らげてくれている」
その言い方が気に入らなかったらしいカシオペアは、アンドロメダを即刻 この城から追放しろと、甲走った声でペルセウスに命じた。
ペルセウスは、祖母の命令を、
「いやです」
と、静かに短く、だが 言下に退けたのである。
それはペルセウスの、祖母に対する初めての正面切った反抗だったかもしれない。

やっと祖母の命令を退けることができた。
祖母に逆らうことが、自分にもできたのだ。
まなじりを吊り上げる祖母の前を辞したペルセウスの心は、むしろ凪いでいたのだが、その分 慌てたのはアンドロメダの方だった。
「僕は 普通の人間とは何かが違うのだと思います。王大后様の ご懸念は尤もなことです。僕は――」
今にも この城を出ていくと言い出しそうなアンドロメダに、ペルセウスは、だが、その言葉を言わせなかった。
自身の父の名を出して、ペルセウスはアンドロメダを引き止めることをした。

「おまえは おそらく、私の父ペルセウスのように、神の加護を受けているんだ。きっと そうだ」
「僕は、そんなものを得られるような特別な人間ではありません。そういう意味では 凡百の――ただの人間です」
「ただの人間ではない。おまえは 美しく清らかで優しい心を持った人間だ。神も愛するだろう」
「そんなことは……。もしそうだったとしても、王大后様は、僕の力を危険なものだと思っているのでしょう」
「危険なものなどであるものか。現に、おまえは その力で この国とアマランダの花畑を嵐から守ってくれた。強大な力は良いことに使えばいいのだ。私は、断固として、祖母からおまえを守るぞ。こればかりは、断固として抵抗する」
「……」

アンドロメダは、ペルセウスとカシオペアの間に対立を生むことは避けたいようだった。
ペルセウスに乞われ、アマランダに懇願され、エティオピアの家臣たちに要請されなければ――つまり、カシオペア以外の すべての人間に望まれなければ――アンドロメダはエティオピアの王城を出ていただろう。

ペルセウスは初めて祖母に抵抗できたことが嬉しくて、それが自信につながったらしく、言動に力強さが伴うようになってきていた。
王が王らしくなることを歓迎しない者はいない。
王大后カシオペアだけが、アンドロメダに憎々しげな目を向けていた。






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