神々に例えるなら大地母神ガイア。すべての神々の母たる存在。 そんな祖母カシオペアの束縛から逃れようとしているペルセウスは、さしずめ、神として未熟だった頃の大神ゼウスか。 ティターン神族とオリュンポス神族が 世界の覇権を争って戦ったティタノマキア前夜は、天上界も このように一触即発の様相を呈していたのだろうか。 いわく言い難い緊張感が漂い始めていたエティオピアの王城に、一人の来訪者があった。 それは、一目で北方の生まれとわかる明るい金髪の若い男で、名は氷河。 「はるばるヒュペルボレイオスからやってきた。この国の王は 大神ゼウスの血を引く豪の者で、剣術も弓術も、並外れた力量の持ち主と聞いた。ぜひ 手合わせを願いたい」 彼は そう言って、エティオピアの王に剣での対戦を求めてきたのである。 ヒュペルボレイオスは世界の最北にある国。 そんな国の者が このエティオピアにやってきたというのなら、彼は、北の果てから 南の果てまで 世界を横断してきたということになる。 普通の人間なら、そんな旅には まず身体が耐えられないだろう。 どうせ はったりと思い、家臣からの報告を聞いても、ペルセウスは その男に会う気にはならなかったのである。 今は平時で、英雄志願は不要。 もし国と国の戦いが勃発しても、その勝敗は、軍備や兵士の強弱ではなく、有力な神の加護を得られるかどうかで決まるのだ。 そういう手合いが来た時は、エティオピア国軍の中から選抜した剣士たちと戦わせ、早々に お帰り願うのがエティオピアの慣習になっていた。 ペルセウスが、氷河と名乗る男と対面する気になったのは、彼が エティオピア国軍選り抜きの剣士 十数人を すべて一撃で打ち倒したという報告を受けたから。 挑戦者との直接の戦いを避けるエティオピア国王を、彼が臆病者の腰抜けと ののしっている――という話を聞いたからだった。 ペルセウス個人は、自分が誰にどう評されようと全く構わなかったのだが、一国の王として、彼は この国の王を腰抜け呼ばわりする者を捨て置くわけにはいかなかったのである。 エティオピア国軍選り抜きの剣士を すべて一撃で打ち倒し、大国の王を腰抜け呼ばわりする男。 ペルセウスは、その挑戦者を 野卑で 粗暴で礼節を知らない好戦的な男なのだろうと思い、そういう姿を想像していた。 が、ヒュペルボレイオスから やってきた氷河という男は、ペルセウスの想像に反して、野卑で粗暴な巨漢でも、筋肉隆々の脂ぎった男でもなかった。 むしろ細身で、アポロンかヘルメスにでも模したいような美丈夫。 眼光が鋭い――というより 冷たい――ので、見掛け通りの優男ではないのだろうと、ペルセウスは すぐに思い直したのだが、思い直した次の瞬間には、ペルセウスは そんなふうに思い直した自分の軽率を 大いに後悔することになったのである。 てっきり 功名心に逸った英雄志願だと思っていたのに、氷河と名乗った その男は、王との謁見の場で、王に挨拶するより先に、ペルセウスの後方に控えていたアンドロメダに目をとめて、 「こんな暑い国にまで やってきた甲斐があった! こんな美形に会えるとは!」 と、一人で勝手に盛り上がり始めてくれたのだ。 「王よ。立場上、家臣の前で負けることが許されず、俺との手合わせができないのであれば、代わりに その美形と一戦 交えさせてくれ。できれば 今夜、その美形の寝室で!」 王の前で 畏まりもせず、弾んだ声で とんでもない挑戦状を差し出してきた礼儀知らずを、その場に控えていた衛兵が誰一人 押さえつけようとしないのは、衛兵たちが彼の無礼に呆れ果てているからなのだろうと、ペルセウスは最初のうちは思っていた。 無礼な挑戦者の最も側に立っている兵に 彼を大人しくさせるよう命じようとして初めて、兵たちは彼の態度に呆れているのではなく、怯えているのだということに、彼は気付いた。 兵士たちは、エティオピア国軍選り抜きの剣士たちが 彼に一撃で倒された場面を、自分の目で見たか、人づてに その時の様子を聞いて、無礼な挑戦者の力に すっかり怖気づいてしまっているらしい。 最終的に、無礼な挑戦者を大人しくさせたのは、アンドロメダの、 「どうして闘技場や剣技場ではないんですか?」 という素朴な反問。 真顔でアンドロメダに そう問われた無礼者は、その一言でアンドロメダに降参してしまったようだった。 アンドロメダが『なぜ闘技場や剣技場ではないのか』と本気で尋ねたのか、それとも それは強烈な切り返しだったのか。 ペルセウスは 実は 本当のところが わかっていなかった。 アンドロメダに 降参した挑戦者も、おそらく わかっていなかっただろう。 そもそも彼がアンドロメダを男子と知って、そんな ふざけた挑戦を口にしたのかどうかも怪しい。 いずれにしても、これで無礼な挑戦者はアンドロメダに興味を示すことをやめるだろうと、ペルセウスは思っていた。 強烈では あるが、これほど気の抜ける反撃もない。 こんな反撃を受けて、再挑戦しようという気になる男は まずいないだろう――と、ペルセウスは思った。 だから、その翌日、王宮の中庭に面した回廊で、アンドロメダが氷河に掴まっている場面を見た時、ペルセウスは氷河の不屈の闘志に恐れ入ってしまったのである。 懲りるということを知らない男からアンドロメダを救い出すべく、二人の方に歩み寄り――ペルセウスは 途中で、その足を止めた。 「瞬。俺だ、氷河だ」 「え」 「突然 聖域からいなくなるから、心配したんだぞ。ハーデスの仕業かと思っていたら、ゼウスが何か小細工をしたようだというし……。アテナが おまえの居場所を探し出してくれたんだ」 まるで既知の知り合いか友人に対するような気安い口振りで、氷河はアンドロメダに語りかけていた。 アンドロメダの方は、異邦の無礼者が何を言っているのか まるでわかっていない様子で、ぽかんと彼の顔を見上げている。 「あ……」 あの冷たく青い瞳に恐れを成したのか、アンドロメダはすぐに その顔を伏せた。 氷河が、焦れたように アンドロメダの腕を掴みあげる。 「迎えに来るのが遅かったので、拗ねているのか? 機嫌を直してくれ。神の仕業となると、アテナでも すぐには情報を掴めなかったんだ」 ゼウスにハーデス、アテナ。 有力な神々の名前を気軽にぽんぽんと出してくれるものである。 ペルセウスは、無礼な挑戦者の正気を疑うことになった。 「僕、そんな神様方のことなんか知りません。あなたのことも知りません!」 「ああ、こんなに長い間 おまえを迎えに来なかった俺に腹を立てる おまえの気持ちはわかるが、俺だって、おまえを見付けられずにいる間 ずっと気が狂いそうだったんだぞ」 アンドロメダが記憶を失っていることを、氷河は知らずにいるらしい。 それとも この男は、アンドロメダの記憶がないのをいいことに、馬鹿げた作り話でアンドロメダを煙に巻こうとしているのか。 どう見ても困惑し、逃げたそうにしているアンドロメダの身体を引き寄せ、抱きしめ、氷河は アンドロメダの唇に 自分のそれを重ねようとした。 「何をするんですっ」 アンドロメダが氷河に 力で勝てるとは思えないのだが――アンドロメダは アンドロメダの身体を抱きしめていた氷河の腕から 一瞬で逃れ出ていた。 「瞬……おまえ、まさか……」 今度は、氷河の方がアンドロメダに戸惑いの目を向ける。 アンドロメダは やはり、氷河の冷たく青い瞳を恐れているようだった。 『あなたは僕を知っているの』 『瞬というのは、僕の本当の名前なの』 『人違いではありませんか』 こういう場合、アンドロメダの立場にある人間が言うべきこと、問うべきことは いくらでもあるだろうに、アンドロメダは氷河に何も言わず、その場から駆け去った。 |