氷河がエティオピアに来て ひと月。 あの嵐以来、エティオピアでは ずっと晴れた日が続いていた。 その日も、天気は快晴。 陽射しが強く 気温は高いが、湿度が低いので、過ごすには至極 快適。 そんなふうな、エティオピアでは ごくありふれた日だった。 氷河が、昼下がりの回廊を通るアンドロメダを掴まえて 口説き始めるのも、城中の者たちには もはや見慣れた光景。 氷河がアンドロメダを回廊から中庭に連れ出す様を、2階の自室のバルコニーから、ペルセウスは呆れながら眺めていたのである。 エティオピアに来てから ひと月もの時間が経ったというのに、芳しい成果が上がらないことに焦りを覚え始めたのか、氷河には これまでのような余裕が感じられず、彼は かなり苛立っているようだった。 「瞬。おまえは いつもいつも あの男に ひっついているが、いったい あの男の何が気に入ったんだ! あの男は、おまえを好きなわけじゃない。暴君のように自分の上に君臨している祖母への当てつけに、おまえを利用しているだけだ」 氷河は エティオピア王家の事情を ほぼ把握してしまったらしい。 そして、氷河は、今日も周囲を気にしない男だった。 他者の目にも耳にも頓着せず、大きな声で この国の王を こき下ろし始めた氷河に、ペルセウスは さすがに渋面になったのである。 「あなたは どうして、そんな心無いことを言うんです」 アンドロメダが悲しげな声で、氷河を諫める。 氷河は、アンドロメダに諫められて、むしろ嬉しそうな顔になった。 「聡い おまえが、あの男の卑劣と弱さに気付いていないはずがなかったな。おまえは あの男に同情しているのか? だが、あの男は 仮にも一国の王。あまり甘やかすのは よくないぞ。奴自身のためにならん」 「ペルセウス様は、行き場のない僕を拾ってくださって、このお城で暮らすことを許してくださいました。甘やかされているのは――ペルセウスに様に親切にしてもらっているのは、僕の方なんです」 「ああ。おまえは絶対に他人を悪く言わない奴だ。それなら それでいい。――そんなことは、どうでもいい。瞬。いい加減に思い出してくれ。俺だ。いくら俺が おまえに甘い男でも、さすがに これ以上は――」 「これ以上は?」 これまでは 比較的 容易に撃退できていたので――氷河が比較的 あっさり引き下がってくれていたので――アンドロメダは油断していたのかもしれない。 アンドロメダは、氷河を、乗りの軽い お調子者程度に思っていたのだろうが、その実 彼はエティオピア国軍選り抜きの剣士たちを一撃で倒し、城中の兵士たちを震え上がらせるほどの実力の持ち主なのだ。 「いつまでも 言うことを聞かないと、力づくで思い出させることになるぞ。おまえが俺以外の男にばかり かまけているせいで、俺は、ゼウスの浮気を知らされたヘラより腹が立っているんだ」 言うなり、氷河はアンドロメダの足を掬うようにして、その身体を庭の芝の上に引き倒した。 油断していたアンドロメダは、この成り行きが信じられなかったのだろう。 「な……なにするの! やめてくださいっ。放してっ」 かなり取り乱して――アンドロメダにしては 穏やかさを欠いた声で――アンドロメダは氷河に向かって叫んだ。 アンドロメダは氷河の腕から逃れようとしているようなのだが、既に態勢を崩され 重心を見失っているせいで、彼は平素の敏捷さを発揮できないでいる。 腕と自身の身体の重みでアンドロメダの動きを封じている氷河は、そんなアンドロメダを見おろし、勝ち誇っていた。 「おまえの力をもってすれば、俺を引き剥がすことなど、わけもないだろう。そうしてみろ」 「そんな……」 「できるはずだ、おまえなら。でないと、俺はこのまま おまえを犯すぞ」 いったい この不埒者は何を言っているのか。 2階のバルコニーから直接 中庭に飛び下りたペルセウスは、氷河の言い草に怒髪天を衝いて、その怒りのまま 氷河の身体を突き飛ばした。 「貴様、アンドロメダに何をしている!」 そのまま無様に地面に転がってくれればよかったのに、ペルセウスに突き飛ばされた氷河は 地面に転がりも倒れもせず、そのまま宙で身体を回転させ、しっかり両足で地面に着地した。 怒りのあまり、剣を取ってくることを忘れた自分に、ペルセウスは立腹したのである。 「信じられん……。何という下劣な!」 「瞬は貴様のものじゃない。貴様に、俺の恋を邪魔する権利はない」 エティオピア国王の激昂を目の当たりにしても、氷河は恐れる様子を全く見せなかった。 下劣で浅ましい場面を見られたことを恥じている様子もなく、いつも通り――否、いつもより落ち着いた声音で――氷河が ペルセウスの横槍を非難してくる。 しかし、これは、“邪魔する権利”を要することだろうか。 氷河の理不尽極まりない言い草に、ペルセウスの怒りは いや増しに増した。 「アンドロメダは私の妹のようなものだ!」 憤怒に任せて 張り上げたエティオピア国王の言葉に、下劣な男が 暫時 呆けた顔になる。 緊張感の消えた顔で、氷河は図々しくも、エティオピア国王の発言に訂正を入れてきた。 「いや、瞬は男だから。せめて弟のようなものだと言ってくれ」 「男子と知っていながら、こんな無体をしようとするかっ」 「ゼウスの血を引いている割りに硬い男だな……」 ぶつぶつ口の中で 文句を言ってから、氷河は 急に顔つきを変えた。 下劣な不埒者を睨んでいるペルセウスと、そんなペルセウスの顔を不安そうにみあげているアンドロメダ。 二人に それぞれ一瞥をくれ、氷河は その身体から 奇妙な力を放出し始めた。 冷たく青白い力。 目には見えていないのに――視覚で それを捉えることはできていないのに――ペルセウスには、その力の温度や色彩、強さまでを感じ取ることができたのである。 いったい この力は何なのか。 あの嵐の日に瞬が示した力と同種のものなのか。 それにしては、あまりに感触が違いすぎる――。 そんなことに驚いているうちに、氷河が作り出した力は どんどん大きく強くなり、広さを増していき――やがて その力は 王城の中庭から見渡せる限りの空を すべて覆い尽してしまった。 見えなかった力は いつのまにか見えるものになり、それは――信じ難いことだが――王城の庭から見える限りの空を凍りつかせていた。 そうとしか思えなかった。 あまりのことに呆然としているペルセウスを、氷河が冷ややかな目で見つめてくる。 「これまで 散々 俺の邪魔をしてくれたな。いくら寛大な俺でも、我慢には限度がある。この空いっぱいの凍気、今 貴様の上に凝縮して落としてやる。とっとと死んで、貴様のオジイサマに星にでもしてもらうがいい」 そう宣言して、まるで上空の凍気に攻撃目標を示すように、氷河が腕を振り上げ、振り下ろす。 氷河の言葉通り、空いっぱいの凄まじい凍気は 鋭く巨大な剣となって、ペルセウスの頭上 目がけて急降下してきた。 「氷河っ、やめてっ!」 「ペルセウス様、逃げてくださいっ!」 だが、その力は、次の瞬間、“瞬”が生む 凍気とは真逆の力にぶつかり 相殺されてしまったのである。 そして、凍気の攻撃目標だった男の身体は、栗色の髪の少女に体当たりされて 僅かに よろめいただけだった。 瞬の力と氷河の力の衝突は 暴力的な力を帯びた蒸気を生んだが、それは 雨にもならず、一瞬で蒸発してしまった。 「さすが。本気になった おまえの小宇宙は迫力が違うな」 すっかり 元に戻った青い空を見上げ、氷河が呆れたように片眉を上げる。 エティオピア国王の身体を両手で 思い切り突き飛ばそうとし(て、突き飛ばし損なっ)たアマランダは、その手をペルセウスに掴まれて 真っ青になっていた。 「すみません、すみません、すみませんっ!」 アマランダの悲鳴のような謝罪は、 「氷河っ! 氷河は加減ってものを知らないの! 僕に記憶を取り戻させるためなんだとしても、こんなに派手に小宇宙を燃やして、まかり間違ったら、ペルセウス様もアマランダさんも――この城 全部が跡形もなく消し飛んでしまっていたかもしれないでしょう!」 というアンドロメダ――瞬――の怒声に 掻き消されてしまった。 眉を吊り上げた瞬に 大音声で怒鳴りつけられても、氷河の反応は、終わりかけた春の微風のように のんびりと呑気。 彼は 実に飄々としていた。 「なに。たとえ 記憶が戻らなくても、自分の目の前で非力な一般人が命を落とすことを、おまえが許すはずがないだろう。その点に関しては、俺は おまえに絶大な信頼を置いているぞ」 「その点に関しては?」 「ああ。その点に関しては。だが、おまえの男の趣味は 全く信頼が置けないから」 「それは そうでしょう。こんな無茶をする人を好きなんだから!」 瞬の暴言を聞いた氷河が、嬉しそうに相好を崩す。 瞬にどれほど辛辣な罵詈雑言を浴びせかけられても、瞬が自分を好きでいてくれるのであれば、氷河は それで満足かつ幸せであるらしかった。 そして、瞬の心と目が 自分に向けられていさえすれば、氷河は 他に欲しいものも 守りたい矜持も 立場も面目もないようだった。 「君とアンドロメダは 以前からの知り合いだったのか、瞬というのが、アンドロメダの本当の名前なのか。人違いではなかったのか。君たちは――神なのか」 穏やかな青色を取り戻した空の下、何とか気を取り直したペルセウスの質問攻めにも、氷河は 以前とは打って変わって丁寧に――“腰を低くして”と表しても、決して言い過ぎではないほど丁寧に――答えを与えてくれた。 「俺たちは神ではなく、女神アテナのもとで 地上世界の平和を守るために戦っている彼女の闘士だ。俺たちはギリシャの聖域を本拠地にしているんだが、ある日 突然、瞬が聖域から消えてしまった。もちろん 俺たちは懸命に瞬を捜したんだが 見付からず――瞬の居場所を突きとめてくれたのはアテナだった。大神ゼウスが、エティオピアの将来を危惧して瞬を送り込んだらしいと」 「大神ゼウス……?」 それはペルセウスの祖父の名である。ペルセウスの父の父の名だった。 「ああ。ゼウスは、人生のすべてを王大后カシオペアに牛耳られているような孫を案じて、孫を祖母から自立させるために、エティオピアに一波乱起こすことを企んだんだ。男を代母の支配から解放し 自立させるには、何といっても恋が 最も有効。で、ペルセウスにはアンドロメダだろうという単純かつ短絡的思考で、アンドロメダ座の聖闘士である瞬を この国に送り込んだらしい。ご丁寧に瞬の記憶を奪って、瞬の都合も 俺の都合も考えず、アテナの許可さえ得ずに」 瞬を取り戻して上機嫌だった氷河の顔が、ゼウスの所業を語る言葉を重ねるにつれ、忌々しげに歪んでいく。 おおよその事情を知らされたペルセウスは、氷河の不快も当然のものと思った。 神の都合で 勝手に仲間をさらわれて楽しいはずがない。 もちろん 氷河の不快は当然のものと思うことができたのだが。 「確かに、私は アンドロメダを守るために祖母に逆らうことを始めていたが――恋で自立を促すも何も、瞬は男子ではないか」 「ゼウスは両刀だから、そこいらへんは いい加減だったんだろう。美形なら それでいいと考えていたのではないか? 男なら、カシオペアも油断すると思ったのかもしれん」 「そんな いい加減な……」 いい加減で単純なのは 氷河の“愛”の定義だけかと思っていたのに、大神ゼウスまでが そんな大雑把な考えで動いているとは。 人間の身で、まさか神々の父たる存在を 非難するわけにもいかず、ペルセウスは、口を突いて出そうになった言葉を 慌てて喉の奥に押し戻した。 自分勝手で傍迷惑な神の弁護をしてやるほどの親切心は、氷河も持ち合わせていないらしい。 得心し切れずにいるペルセウスをそのままに、氷河は再び 機嫌のいい笑顔になって、瞬の方に向き直った。 |