武力を用いない戦いを“冷戦”と言うのなら、それは確かに冷戦だったろう。
氷河は、瞬が事実を知らせてくれない限り 機嫌を直すことができない。
瞬は、アルベルトサンが何者なのかを、氷河に知らせたくない。
攻撃的小宇宙を たぎらせているのは氷河で、瞬は防御一辺倒。
気が立っているのは氷河で、瞬は しおれている。
優勢に見えるのは氷河で、瞬は どう見ても劣勢。
にもかかわらず、その戦いに決着をつけることができるのは瞬の方で、氷河は、(へたをすると永遠に)待っていることしかできないのだ。
氷河が苛立つのは無理からぬことだが、そもそも氷河には苛立つ権利がない。

そんな複雑怪奇な冷戦の戦場で 日々の暮らしを営まなければならない星矢と紫龍こそが、いい迷惑だった。
氷河と瞬の冷戦の最大の被害者は、二人の仲間であるところの星矢と紫龍だったかもしれない。
戦いの犠牲者は いつの時も、戦いの当事者ではなく、武器を持たない民間人なのだ。
そして、戦いを終わらせるのもまた、戦いの当事者ではなく、戦いの犠牲者たちなのである。

氷河と瞬の冷たい(温度のない)戦いが始まってから1週間後。
星の子学園という名の防空壕に避難していた星矢が、息せき切って 戦場の ど真ん中に駆け込んできた。
そして、星矢は ラウンジに置いてあるパソコンのスイッチを入れ、
「氷河! 瞬! その わざとらしく微妙な距離感をキープするのをやめて、これを見ろ!」
と叫んだ。

冷戦中なのだから、別に同じ部屋にいる必要もないのに、なぜか二人揃ってラウンジにいた氷河と瞬が、突然 戦場に飛び込んできた星矢に驚いて、目を見開く。
有無を言わせぬ命令口調の星矢に 抵抗することも思いつかず、二人は、パソコンの画面が投射される壁のスクリーンに視線を向けた。
星矢が そこに映し出したのは、世界最大手の某動画共有サービスサイトのトップページ。
星矢は、検索ボックスに『鎖 瞬』というキーワードを打ち込み、表示された検索結果の中の一つをクリックした。

「『鎖』ってのは、どっかの国の 何とかかんとかっていう作家が書いた小説のタイトルなんだと。俺は、よく知らねーんだけど」
そんな説明では何もわからない――と、氷河と瞬が言いかけたところに、解説役が登場。
星矢と共に星の子学園に避難していた紫龍が、今、星矢に続いて防空壕から出てきたところらしかった。
「どっかの国というのは、ハンガリーだ。何とかかんとかというのは、カリンティ・フリジェシュ。世界で初めて“六次の隔たり”という仮説を著した作家と言われている。ちなみに、“六次の隔たり”というのは、知り合いの知り合いを辿っていくと、6ステップのうちに、人は 世界中のすべての人に行き着くことができるという仮説だな」

星矢の説明になっていない説明よりは はるかに詳細かつ具体的なのだろうが、“意味がわからない”という点においては、星矢の説明も 紫龍の説明も大差がない。
わけがわからず 眉をひそめた氷河に、星矢は、更に わけがわからなくなる説明を加えてきた。
「以前 星の子学園にいて、今は じーちゃんばーちゃんに引き取られてるガキが合気道を習っててさ。その子が通ってる道場の先輩から、この動画のこと教えてもらって、それで 美穂ちゃんに連絡が来たんだ。その子、星の子学園に来てた おまえらの名前を憶えてたらしい。で、美穂ちゃんが俺に知らせてくれて、こうして おまえらに到達したわけ。道場の先輩、星の子学園にいたガキ、美穂ちゃん、俺、おまえら――って、六次どころか五次でつながったわけだ。びっくりするほど、世界は狭いぜ!」

星矢は、ひどく興奮している。
星矢の興奮のわけがわからない氷河は、だが、残念ながら、星矢と一緒に興奮することができなかった。
「だから、それがどうしたというんだ!」
それでなくても、ここのところ、瞬との間の空気が ぴりぴりして(氷河が一方的に ぴりぴりさせていただけなのだが)気が立っているところに、星矢と紫龍が二人がかりで わけのわからないことを並べ立てる。
氷河の苛立ちは、今 まさに最高潮に達しようとしていた。
氷河が 苛立ちの頂への登頂に失敗したのは、
「アルベルトさん……?」
という、瞬の小さな呟きのせいだった。

瞬の視線は、壁に嵌め込まれたスクリーンに映し出されている動画に据えられていた。
否、それを 動画と呼ぶのは正しくないかもしれない。
それは(今はまだ)静止画で、動きのないテキストデータだけが映し出されているだけだったから。
動画のタイトルは『鎖』。
スクリーンには、日本語とスペイン語で、『瞬とヨーガという名の二人に心当たりのある人がいたら、二人に この動画のことを知らせてください』という文章が書かれていた。
『 h 』が抜けているのは、『 h 』の発音に慣れていないロマンス語を母国語にしている人間としては自然なことなのか、あるいは意図的なものなのか。
その判断は アテナの聖闘士たちにはできなかったが、『ヨーガ』は『氷河』を指しているようだった。

星矢がプレイボタンをクリックする。
スクリーンには、氷河とは印象が真逆の金髪碧眼の男が現われ、自分はアルゼンチンのコルドバで合気道の道場を開いているアルベルト・マルダセナだと自己紹介をした。
「私は、先日 日本に旅行し、そこで瞬という 大変な美少女と知り合いました。図書館で資料を探していた時に、彼女の知り合いに似ているというので 声を掛けられたのです。彼女の知り合いというのは 既に亡くなった人で、彼女は、私が日本にいる間の観光ガイドを務めたいと申し出てくれました。その間、私の顔を無遠慮に見ることを許してほしいという条件付きで」

「私は その申し出に戸惑いました。私は 日本に渡るのは 既に5度目でしたし、渡日の目的は 道場経営継続のための事務手続きで、特に観光ガイドは必要としていなかった。けれど、瞬の瞳が素晴らしく澄んで美しかったので――その瞳で、瞬が私を 心から慕わし気に見詰めるので――私は、瞬の申し出を断れなかったのです。なにしろ、桜の花のように可憐な美少女でしたし」

「彼女は 何か事情があるようで、私に、瞬という名の他には 自分のことを何も教えてくれませんでした。彼女が 毎日 私の宿泊先にやってきて、私の外出に同行する。それだけです。それが5日間。彼女は 私と会っていることを、家族や恋人にも知らせていなかった。そのため、彼女の恋人が、彼女と私の仲を誤解したようなのです」

「誤解を解くことができないまま、私はアルゼンチンに帰国しました。だが、私は、ずっと彼女のことが心配だった。けれど、私は瞬のことを何も知らず、彼女と連絡を取ることもできない」

そこまで語って、アルベルトサンは、一度 言葉を途切らせた。
氷雪の聖闘士と真逆の印象を持つアルベルトサンの眼差しは 温かく気遣わしげで、もし瞬に一輝以外に兄がいたら――瞬に似た兄がいたら――その男は こんな目をしているに違いないと思えるような――そんな眼差しだった。

「私は、昨日、友人から、カリンティ・フリジェシュというハンガリーの作家が書いた『鎖』という小説の話を聞かされた。知り合いの知り合いを辿っていくと、人は 6ステップのうちに世界中のすべての人に行き着けるという、いわゆる“六次の隔たり”が描かれている小説です。私は それを試してみることにした」
それが、この動画公開の趣旨らしい。
「この動画に目を留めた方々にお願いです。瞬とヨーガという名の二人に心当たりのある人は、この動画のことを二人に知らせ、そして、この動画を見るように言ってください。もし彼等が動画の視聴が不可能な環境にあるようなら、この動画の内容を伝えてください」

アルベルトサンのメッセージは、そこまでは彼の動画を視聴する不特定多数の人間に向けられたものだったのだろう。
実際には10秒にも満たない時間、だが、絶え間なく送り出されてくる情報に接し慣れている人間には数分にも感じられる長い沈黙の後、彼は“ヨーガ”個人に向けてのメッセージを語り始めた。

「ヨーガくん。私は瞬の恩師に似ているのだそうだ。瞬が仲間と共にいることを選んだせいで、瞬の恩師は命を落とすことになったと言っていた。いったい なぜ そんなことになったのかは教えてもらえなかったが、瞬はずっと恩師に謝りたかったのだそうだ。私は、瞬にとって、恩師に似ているだけの通りすがりの旅行者にすぎない」
温厚篤実で、包容力のある大人。
アルベルトサンの その印象は、メッセージが氷河(だけ)に向けられたものになった途端、一変した。
冷たくはないが、厳しい。
「あの時――君が 私と瞬の振舞いを見て誤解した時、私は 瞬の恩師の代わりだったんだ。瞬の師として、瞬を抱きしめていた。君が誤解するようなことは何もなかった。残念なことに」
そして、言葉通りに 残念そうだった。

彼は、面立ちは瞬の師に似ているのかもしれないが、瞬の師ではない。
瞬も、それは わかっていたのだろう。
だからこそ 瞬は、彼に、名前以外の自分の情報を与えなかったのだ。
彼がアンドロメダ座の聖闘士の師ではなく、そして、優しく善良な一般人だから。

「私は、この動画が 君の目に触れないことを、心のどこかで期待している。それでも、この動画を公開するのは、瞬を愛しいと思い、瞬の幸福を願う気持ちが真実のものだからだ。もし、誤解が解けて 瞬と幸せに過ごしているのなら――あるいは、この動画を見ることで誤解が解けたなら、私が瞬と共に行った道場に行ってくれ。その事務所に、瞬への ささやかな贈り物を預けてある。瞬の師の名を告げて、二人で それを受け取ってくれ。贈り物が瞬の手に渡れば、その連絡が私にくることになっている」

「君たちからの伝言はいらない。未練がましいことはしたくない。抱くべきではない希望は抱きたくない。瞬が幸せでいることさえわかれば、私は それでいい」

優しく善良な人のメッセージは、
「瞬。君の幸せを、いつも、心から願っているよ」
という、優しく善良な言葉で終わっていた。






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