「あーら、お利巧さん。坊やったら、アレスより アポロンより はるかに賢いわよ」
アレスやアポロンより賢い人間というのは、ゾウリムシやミミズより賢いのだろうか。
褒め言葉になっていない褒め言葉を 星矢に投げかけてきたのは、星矢の好みではなかったが、なかなかの美少女だった。
そして、彼女は、自己主張が強いのか承認欲求が強いのか、それとも 単に せっかちなだけなのか、星矢が『誰だ?』と訊く前に、さっさと自己紹介を始めてくれたのである。
「お利巧な坊やに教えてあげましょう。それはね。この私、争いの女神エリスのせいよ」
「争いの女神エリス……」

肩書きからして、トラブルの匂いが ぷんぷん匂ってくる。
争いの女神エリスといえば、女神テティスとペーレウスの結婚式に招かれなかった腹いせに、『最も美しい女神へ』と示された黄金のリンゴを婚姻の宴の中に投げ入れて、ヘラ、アテナ、アフロディーテの三女神の間に、女の争いを勃発させた張本人ではないか。
女神たちの恨みを買うことを恐れたゼウスは その審判をトロイアの王子パリスに委ね、そのパリスが極めて浅慮な男だったせいで、トロイア戦争が起き、ギリシャ、トロイア両軍は おびただしい犠牲者を出した。
そのエリス。
彼女の名に アテナの聖闘士たちが 嫌な予感を覚えたのは当然のことだったろう。
その嫌な予感は、もちろん、現実のものとなる。
エリスは、今回 彼女がしでかしてくれた仕事の内容を、得意顔で語って(自慢して)くれた。

「先月、オリュンポスの神々が オレンジ狩りイベントを催したのよ。だけど、オリュンポスの神々は 今回もまた私を誘ってくれなかったの。テティスとペーレウスの結婚式の時で懲りたと思っていたのに、オリュンポスには学習能力のない神々しかいないのね。で、私も律儀なもんだから、今回もまた、私をないがしろにしてくれた返礼に、争いの種を撒いてやったわけ。『最も美しい男神へ』と記した黄金のトマトをオレンジ畑に投げ込んであげた。そのトマトを巡って、現在 オリュンポスでは男神たちが醜い争いを繰り広げている。瞬チャンは、その争いに巻き込まれてしまったのよ。なんて かわいそうなのかしら」

もしオリュンポスの神々が オレンジ狩りにエリスを招待していたら、それはそれで別の争いが起きていただろう。
なにしろエリスは争いの女神なのだ。
その点を考慮すると、オリュンポスの神々を安易に“学習能力がない”と決めつけることはできなかったが、だから“オリュンポスの神々は賢明である”と言うこともできない。
そして 今、アテナの聖闘士と聖域にとって問題なのは、オリュンポスの神々が賢明か暗愚かということではなく、
「なんで、それで、瞬が神々に狙われたり、邪神に取り憑かれたりすることになるんだよ!」
ということだったのだ。

星矢の怒声に、エリスは いよいよ得意顔。
彼女は 鼻高々で嬉しそうに、星矢の疑念を晴らしてくれた。
「坊やの疑念は当然ね。オリュンポスの神々は、例によって、黄金のトマトを与える男神をゼウスに選ぶように要求したの。でも、これまた 例によって、選外の神に恨まれるのを避けようとしたゼウスは、その審判者として、地上で最も清らかな魂を持つ者を指名したのよ。つまり、そこの瞬チャンを」
「どうして 瞬なんだ」

星矢が口にした『どうして』は、『“地上で最も清らかな魂を持つ者”が、どうして瞬なのか』という意味では、もちろん ない。
“地上で最も清らかな魂を持つ者”が瞬であるという判断には、星矢も異論はなかった。
そうではなく――星矢の『どうして』は、『どうして そんなことの審判者に“地上で最も清らかな魂を持つ者”を指名するのだ』ということ。
なぜ そんなことに、瞬を巻き込むのか。
要するに、地上の平和にも正義にも人類の存続にも全く関係のない、くだらないイケメンコンクール。
そんなものの審判者には、どこかから美形好きの腐女子でも連れてくればいいではないか! ということ。
『いっそ、エリスにナンバー1を決めさせればいいのに』とさえ、星矢は思ったのである。
『そんな神々の暇つぶしに、限りある命を懸命に生きている健気な人類を巻き込まないでくれ』と。

が、エリスは、人間の迷惑など 知ったことではないようだった。
彼女は、星矢の『どうして』を華麗に無視した。
「つまり、そこの瞬チャンは、第二のパリス。ゼウスは、女の恨みなら ともかく、男の恨みなんか買っても ちっとも楽しくないと考えたんでしょうね。とんだ災難だけど、責任転嫁はゼウスの得意技だから。恨むなら、私じゃなくゼウスを恨んでね。」
もちろん、ちゃんとゼウスは恨む。
だが、恨まれる権利は、エリスも十分に有しているのではないか。
星矢は、そう思った。

「じゃあ、瞬に宿った邪神ってのは――」
「おそらく、瞬チャンの中には、冥府の王ハーデスの意識が入り込んでいるんだと思うわ。黄金のトマトを手に入れようとして名乗り出た男神は、太陽神アポロン、戦闘の神アレス、冥府の王ハーデスの三柱。ハーデスは、瞬チャンの肉体を支配して、瞬チャンに自分を選ばせようとしたのね、きっと」
エリスの説明に 瞬がぽかんとしたのは、事情がわかっても、その事情を理解することができなかったから。もしくは、理解したくなかったから――に違いない。
そんなことのために、自分自身は ともかく、自分の仲間や教皇が――つまりは聖域全体、ひいては地上世界が――踊らされているなどという事実を、瞬の良識と常識は受け入れることができなかったのだ。
氷河でさえ、あまりの理不尽――というより、馬鹿馬鹿しさ――に、自分の負傷と その負傷がもたらす苦痛を忘れたように呆けている。

「それって、アポロンより せこくないか……?」
何とか気を取り直した星矢の呟きに、紫龍が即座に訂正を加えてくる。
「せこい以前に間違っている。ハーデス自身が瞬の中にいたのでは、ハーデスは 瞬に自分を選ばせることができないではないか。ハーデスの本体が どこに転がっているのかは知らないが、彼は 瞬に ご自慢の美しい姿を見せることができない」
「私も そう思うけど、ハーデスには何か深い考えが――」
紫龍の指摘を聞いたエリスが そう言いかけたのは、同じ神として、『ハーデスは そこまで馬鹿ではない』と庇おうとしたのだったかもしれない。
しばし考え込む素振りを見せたエリスが導き出した答えは、結局、
「ないでしょうね」
だったが。

つまり、ハーデスも その程度の おつむの持ち主ということらしい。
星矢と紫龍は、神という存在に 心から絶望した。
が、神であるエリスには、それは絶望するほど深刻な事態ではなかったらしい――ごく普通に受け入れられることだったらしい。
彼女は、にこやかに、
「とにかく、アポロンとアレスは、瞬チャンの中からハーデスを追い出して、瞬チャンを自分の言いなりにしようとしているのよ」
という言葉で、彼女の説明を締めくくった。
内憂外患。エリスの事情説明は 全く嬉しいものではなかったが。






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