「その通りだ、そこをどけ、人間!」
エリスの説明が一段落するなり、アポロンが、彼と瞬(と氷河)の間に立ちふさがっていた星矢と紫龍に、脇にどくよう、居丈高な口調で命じてくる。
エリスの説明が終わるのを大人しく待っているあたり、せこい太陽神は せこいなりに礼儀をわきまえた男なのかもしれなかった。
礼儀正しい神が、続けて発した怒鳴り声は 少々 情けないものだったが。

「ダフネにアカンサスにカッサンドラ。振られた相手は数知れず。私は これまで、失恋男、失恋男と馬鹿にされ続けてきたのだ。せめて“最も美しい男神”の称号だけでも我が物にしなければ、私の立つ瀬がない!」
アポロンは決して、アテナの聖闘士たちの同情を得ようとして、彼を振った女性たちの名を羅列したのではなかっただろう。
せめて もう少し悲しげな声で訴えれば、天馬座の聖闘士や龍座の聖闘士はともかく、イケメンコンクールの審判者である瞬の同情は引けたかもしれないのに。
アポロンは やはり、かなり思慮の足りない男のようだった。

「でも、それ、事実なんだろ? あんた、顔はいいけど、性格と脳みそに かなり問題がありそうだし」
「うむ。そこから、自分を考え直した方がいいな。そもそも、“最も美しい男神”の称号を手に入れたところで、太陽神が失恋男だという事実が帳消しになるわけではない」
「貴様等、死にたいようだな」
アポロンが背中の矢筒から 黄金の矢を1本 取り出そうとする。
彼が その矢を弓に つがえる前に、アレスが鬱陶しい失恋男を脇に突き飛ばした。
そして、彼の都合を星矢たちに訴え始める。

「俺は、黄金のリンゴを手に入れた美の女神の第一の愛人だ。その美の女神サマに、アポロンなんて軟弱者に負けたら、俺との関係を解消すると言われたんだ。“最も美しい男神”の称号を手に入れ損なったら、俺まで失恋男になってしまう!」
アレスは決して、まだ失恋男ではない自分の優位性をアポロンに対して誇ろうとしたのではなかっただろう。
事実と、その事実から推測される未来を 他意なく語っただけで。
だが、地上で最も清らかな魂の持ち主の前で 不倫関係の維持継続を願うのは、どう考えても不適切である。

「潔く負けて、これを機会に その女と手を切れば いいじゃないか。あんたの愛人って、亭主がいる女なんだろ」
「うむ。しかも、第一の愛人というからには、他に第二の愛人、第三の愛人がいて、唯一の愛人ではないということだ。この際、堂々と失恋男になって、人生の軌道修正を図った方が賢明だ」
それは彼に瞬の指名を得ることを諦めてもらうための説得だったが、同時に、善意からの忠告でもあった。
アレスが、星矢たちの善意を退ける。

「大人の世界は、そんな単純なものではないんだ。俺は、戦いの神としては、アテナの後塵を拝し、アテナより一段も二段も劣る神と思われている。実際の戦いでも、常勝ではない。俺が一番手なのは、美の女神の愛人としてだけ。俺のアイデンティティと矜持は、俺が 美の女神の愛人だという、その一点にかかっているんだ」
寝取られ男を作る不倫男にも、不倫男なりの苦労が 多々あるらしい。
不倫の罪は罪として、情状酌量の余地はある――のかもしれなかった。

「まあ、トロイのヘレンみたいに、どこぞの軽薄男への ご褒美にされないだけ、まだ ましなのかもな。瞬は、ご褒美じゃなく審判者なんだろ? 瞬がどっちを選んでも 恨まないっていうのなら、アポロンとアレスのどっちかを選んで、この馬鹿げた騒ぎを おしまいにするって手もあるな」
星矢が二柱の神の前で そんなことを言い出したのは、もちろん、瞬が“最も美しい男神”を選ぶ務めを果たしても、事態は一件落着にはならない――ということを知っているからだった。
瞬と瞬の仲間たちが 今 ここにいるのは、黄金のトマトの所有者を選ぶためではなかったのだ。
星矢の作戦は図に当たった。

突然、大地が割れて、そこから一人の黒衣の男が 姿を現わす。
目を閉じた蝋人形のような その男が 目を開けるのと、
「あ……」
瞬が小さな声を洩らすのが、ほぼ同時。
外から見ている分には 何も変わらなかったが、その瞬間、瞬はハーデスの憑依から解放されたらしい。
「余を無視して、勝手に話を進めるな!」
星矢の作戦に 手もなく乗せられて 瞬の中から出てきたことから察するに、ハーデスの おつむも、アレスやアポロンのそれと五十歩百歩らしかった。

ともあれ。
ついに登場した三番目の男。
冥府のハーデスは、アポロンと対照的な姿の持ち主だった。
長い黒髪、漆黒の瞳。
確かに不細工ではないが、暗い。
性格も陰湿そうに見える。
瞬を内側から支配して“最も美しい男神”の称号を手に入れようとするなどという、姑息な画策をしたことから考えて、陽性の気質でないことは確かだろう。

そうして、出揃った三柱の神。
黄金のトマト争奪戦に名乗りをあげた三柱の神は、確かに三人が三人共、それなりの容貌の持ち主だった。
だが、アレスは品性に欠け、アポロンは軽薄、ハーデスは暗い。
星矢はつい、
「もっと見てくれも性格もいい神サマっていないのかよ」
とぼやいてしまったのである。
「性格がよかったら、神など務まらないだろう」
と アポロンが応じ、他の二人も異議は唱えない。
あまり賢明でも聡明でもなさそうな神々は、だが、自分を知っているという点で、救いがないわけではないようだった。

星矢としては、瞬が邪神から解放されさえすれば、他のことはどうでもよかったので、彼は さっさと この場を収める方向に話を進めていったのである。
「めでたく三人揃ったことだし、黄金のリンゴの時を真似て、賄賂で決めるってのはどうだ? その方が瞬も得になるしさ。へたに戦ったら、あんたらの ご自慢の顔に傷がつくかもしれない。あんた等、それは嫌だろ」
「それは もちろん、絶対に嫌だ」
ハーデスが即答。
三柱の神の中では、彼が最もナルシストらしかった。

「じゃ、そういうことで」
話が、望んだ方向に とんとん拍子に進んでいく。
三柱の神々の気が変わらないうちにと、星矢は 余計な間を置かずに、彼等に賄賂の提示を促した。
紫龍が、星矢の横で難しい顔になる。
「しかし、瞬への賄賂は難しいぞ。パリスは、勝利、権力、美女の3つの賄賂を提示されて、世界一の美女ヘレンを選んだ。瞬は――」
地上で最も清らかな魂の持ち主は、何を欲するのか。
瞬の無欲を知っている紫龍には、それは かなりの難題に思われた。

無欲は大欲に通じる――という。
瞬への賄賂を選ぶことに比べたら、三柱の神たちが 互いに話し合って、妥協点を模索することの方が はるかに容易だろうと、紫龍は 完全に本気で思ったのである。
あまり思慮深くなさそうなアレス、アポロン、ハーデスに、瞬の意に沿う賄賂を思いつくことができるのだろうかと、彼は懸念した。
紫龍の そんな懸念を知るよしもないアレスが、自信満々で、瞬への賄賂を提示する。

「俺を選んでくれたら、戦いでの勝利を約束しよう。どんな敵が現われても、おまえは その敵に必ず勝利する。聖闘士にとって、それ以上の望みはあるまい」
自信があろうと なかろうと、戦いの神であるアレスには それ以外の賄賂を贈ることはできないだろう。
ならば、彼は自信満々でいた方が いいに決まっていた。
実際、彼が提示した賄賂は、普通のアテナの聖闘士には確かに魅惑的な贈り物だったかもしれない。
アポロンが、そんなアレスに蔑みの視線を投げる。

「さすがは 戦いと色事以外に取りえのない野卑で野蛮な戦いの神。低俗の極みだな。瞬。私を選んだら、私は君に地上の平和を約束しよう。どこかで戦いが始まったら、私が戦いをやめさせる。戦いをやめなけば 太陽の炎で大地を焼き尽くすと脅しをかければ、人間たちは嫌でも戦いをやめなければならなくなるだろう」
アポロンが提示した賄賂は、アレスのそれよりは瞬向きだったかもしれない。
地上の平和を守ること。
それこそが、戦いの嫌いな瞬がアテナの聖闘士であり続ける理由であり、目的でもあるのだ。

アポロンの賄賂が瞬に対して非常に有効なものであることが わかったのだろう。
ハーデスは、そこで長考の構えに入った。
“地上の平和”に対抗し得る賄賂を、彼は瞬に提供しなければならないのだ。
“地上の平和”に対抗し得て、かつ 冥府の王が贈ることのできるもの。
それは 死後の安楽か、逆を張って“不死”か、あるいは 死者の蘇りか。
いったいハーデスは どんな賄賂を提示してくるのか。
白鳥座の聖闘士同様、何も言わず 何もせずにいれば、確かに美しい男であるハーデスが口を開くのを、星矢と紫龍は固唾を呑んで見守っていたのである。

人は、長く待たされれば待たされるほど、期待の思いが募るもの。
やがて、考えがまとまったらしい。
星矢の期待のハードルを上げまくったハーデスが 瞬に提示した“地上の平和”に対抗し得る賄賂。
それは、
「人と神の別なく、世界で最も美しい男を そなたに与えよう」
だった。
「女じゃないのかよ!」
星矢の突っ込みを、
「仕方あるまい。今、この地上にも天上にも冥府にも、女子力で瞬に敵う者は存在しないのだ」
ハーデスが涼しい顔で 切って捨てる。
「断言するなよ!」

意表を突いてはいるが、期待外れである。
「ハーデスはないな。こりゃ」
本命アポロン、対抗アレス。
ハーデスは、大穴にもなれない。
「どうする、瞬?」
とにかく適当に一人を選んで、一刻も早く聖域に帰りたい。
これ以上 阿呆な神々の相手はしていられない。
それが、強大な力を持つ神々に比べれば非力な人間であるところの星矢の、嘘偽りのない本心だった。
星矢に『どうする?』と問われた瞬が、賄賂提示の終わった神々の方に視線を投じる。

瞬は、アレスを見て、アポロンを見て、ハーデスを見た。
星矢を見て、紫龍を見て、そして、アレスに肩の骨を砕かれ、アポロンに黄金の矢を射られて、ぼろ雑巾のようになっている氷河を見た。
やがて、意を決したような目になる。
いよいよ審判の時が来たらしい。
人間には どうでもいいことだが、ついに、“最も美しい男神”の称号を得る神が決まるのだ。
人間には 本当に どうでもいいことなのだが、“常に全力投球”を身上にしている星矢は、今回もまた全力投球で期待した。
瞬の審判は実に あっさりしたものだったが。






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