「瞬。瞬、どうしたんだ」
「マーマ、お寝坊さんダヨー」
(えっ……)
瞬の目と意識と心を覚醒させたのは、ナターシャの声だった。
光が地球を7周半するより速く、瞬は目を開けたのである。

瞬の目に最初に飛び込んできたのは 光だった。
眩しい朝の光。
そして、ナターシャの きらきらと輝く大きな瞳。
無口な宝石のように透き通って見える氷河の青い瞳。
そこは氷河のマンションの一室で――いつのまにか氷河だけではなく瞬の寝室になってしまった部屋で――瞬の顔を覗き込んでいるナターシャと氷河の後ろには、見慣れた色の天井と壁があった。

「マーマ、起きた! マーマ、今日はマーマの お当番の日だヨ。ナターシャ、おなかすいちゃったヨー」
「僕の お当番……って……」
お寝坊さんのマーマを起こすことに成功したのが嬉しいのか、『おなかがすいた』と訴えながら、ナターシャは明るく笑っている。
その笑顔を、瞬はベッドに横たわったまま 呆然と見詰め返すことになった。
なぜ ナターシャは笑っているのだろう。
ナターシャは、もう二度と バルゴの瞬に笑顔を見せることはできないはずなのに。
事情が飲み込めず、混乱し、ぽかんとしている瞬を、氷河が叱ってくる。

「当番といったら、朝飯を作る当番に決まってるだろう。俺は仕事帰りなんだぞ。おまえはアクエリアスの氷河を飢え死にさせる気か!」
氷河は怒っている――振りをしている。
氷河が本気でバルゴの瞬に腹を立てるはずはないから、もちろん それは振りに決まっていた。
「あ……ごめんなさい。僕、なんだか 頭がぼうっとして……」
混乱している記憶と思考を整理しようとして、瞬はベッドの上に上体を起こした。
起こしてから、慌ててナターシャを見る。
慌ててナターシャを見てから、慌てる必要がないことに気付く。
瞬は寝衣を着ていた。
ということは、氷河は、夕べではなく今朝 帰宅したのだろうか。
夕べ、自分は 一人で、自分の意思で、氷河のベッドで就寝したのか――。
その記憶がないことに、瞬は戸惑った。

そんな瞬に、ナターシャを抱き上げた氷河が、
「調子が悪いなら、当番を代わってやるぞ」
と気遣わしげに提案してくる。
はっと我にかえり、瞬は氷河に首を振った。
「あ……平気。ナターシャちゃんとダイニングで待ってて。着替えて、すぐに 食事の準備をするから」
「マーマ、大丈夫ー? ナターシャ、そんなに おなかすいてないヨー」
氷河だけでなくナターシャにまで気遣われ、瞬は自分に活を入れた。
「大丈夫だよ、ナターシャちゃん。お寝坊なんて したことがなかったから、自分で自分に驚いただけ」
「自分で自分に?」
それが奇妙なことに思えたらしく、ナターシャは面白そうに、また声をあげて笑った。

ナターシャの笑顔。
いつもと変わらぬ氷河――“ナターシャ”を失ったことを嘆いているようには見えない、いつも通りの氷河。
氷河とナターシャがダイニングルームに向かうと、瞬は急いで身支度を整えた。

あれは夢だったのだろうか?
ナターシャは生きている。
あんなにも現実感のある夢があるものだろうか――?
思考と記憶の整理ができないまま、瞬はベッドの脇のサイドテーブルに置かれたデジタル時計で日時を確かめた。
そこに示されている日付は、沖縄の梅雨明けのニュースから1ヶ月後。
ナターシャと熱海に出掛けて行ったと瞬が記憶している日から5日後。
その間、自分が何をしていたのか、瞬の記憶は曖昧だった。
曖昧というより、どういうわけか、それは存在しなかった。


記憶が不確かでも、人間は生きていることができる。
朝食の支度をし、ナターシャを氷河に託して、いつも通り、瞬は病院に向かった。
瞬には記憶がないのに――記憶がない5日間、“瞬”は ちゃんと病院に行って仕事をしていたようだった。
瞬の主観では5日振りだというのに(瞬は そのつもりなのに)、病院の同僚も看護士も 瞬に何も言わない――何も訊いてこなかったのだ。

そんな人たちに、まさか『この5日間、僕は問題なく仕事をしていましたか』と 尋ねることはできない。
仮にも人の心身を預かっている医師が そんな言葉を口にしたら、皆を不安にする。
人に訊くことはできないので――瞬は機械に頼ったのである。
院内LANのシステムには、瞬の勤務の記録、診察の記録、研究会に出席した記録が、瞬が驚愕するほど確然と記されていた。






【next】