「ササノハ サーラサラー。ノキバニ ユレルー」
ナターシャは、あれほど 気に入っていた『海』の歌を歌わなくなった。
ナターシャの今の関心事は、専ら、織姫と彦星が無事に出会えるかどうか。
そして、
「天の川が見えないヨー。天の川はドコにアルノー?」
ということだった。

天の川は ちゃんと空にあるのだが 灯りの多い都会では見えないのだと、氷河が説明すると、ナターシャは早速、
「ナターシャ、お星サマが いっぱい見えるところに行きたいー」
と、言い出した。
いつも好奇心でいっぱいのナターシャらしい反応。
ナターシャのそういうところを、瞬は どんな場合にも好ましく思い、その好奇心の芽を摘むようなことは しないように努めていた。
だが、何か釈然としない。

「それは、街灯や人家の灯りがなくて、空気が澄んで綺麗なところだな。どこか高いところ。山の方が空に近い。いっそ、富士山にでも登るか」
「ワーイ! フジサン!」
ソファに氷河と並んで座り、『たなばたさま』の絵本を読んでいたナターシャは、その本を氷河に預けて はしゃぎ始めた。
さすがに ぼんやりしてばかりもいられなくなり、瞬は慌てて 氷河を諫めたのである。
「氷河、無理 言わないで。ナターシャちゃんの歳で富士登山なんてできるわけないでしょう」
ナターシャに『それは駄目』『それは無理』を告げる損な役目は、いつも瞬の受け持ちだった。
「ダメナノー? ナターシャ、ガンバるヨー」
「もっと大きくなってからね」

素直な いい子のナターシャは、もちろん ちゃんとマーマの言うことを聞き分ける。
だが、ナターシャは きっとまた、その可愛らしさで氷河を味方につけるだろう。
そして、ナターシャと氷河に ねだられたら、瞬も結局 折れるしかないのだ。
さすがに富士山は無理だが、車で行くことのできる関東近郊の天文台のある山。
適切な場所を探しておいた方がよさそうだと、瞬は考え始めていた。

ナターシャの言動は、決して奇妙なものではない。
今は、海ではなく 星を気にする季節なのだ。
それはそうなのだが。

「ナターシャちゃん、海の歌は もう歌わないの?」
「ウミー? ウミに お星様はいないヨ。お星様は お空にいるんだヨ。ウミよりウチュウの方が広いの。キレイなの。ナターシャ、お星様がいっぱい見たいの。お星様にお願いスルー」
「でも、海にはカニさんやヒトデさんが……」
「カニさんは お空にもいるヨー。ヒトデさんは……ヒトデ座って、あるのカナ?」
「それはないけど……。ナターシャちゃん、人魚姫みたいに泳げるようになりたいって……」
「ナターシャ、人魚姫より かぐや姫の方が好きだヨー。お月様の お姫様ダヨ」
「……」

何かが おかしい――という気持ちを、瞬は 自分の中から消し去ることができなかったのである。
ナターシャは、こんなふうに飽きっぽい子供ではなかった。
『海が見たい』
『星が見たい』
その願いが叶えば満足して それきり関心を他に移す。
瞬が知っているナターシャは、そんな子供ではなかった。
むしろ、その関心、その好奇心を、更に深めていく子供だったのだ。
海を見たら、そこに どんな命があるのかを知りたがり、星を見たら、なぜ赤い星と白い星があるのかを知りたがる。
そんなふうに。

だが、絶対に そうだと言うことは 瞬にもできなかったし、ナターシャも、突き詰めて知りたいと思わない事柄はあるだろう。
ナターシャの関心が 海から星へ あっさり移ってしまうことも、決して あり得ないことではない。
では、あれは夢だったのだろうか。
熱海の海で何があったのか。
小さな その問い掛けを、瞬は、氷河にもナターシャにも投げ掛けることができずにいた。
自分の見た“夢”を、ナターシャには当然としても、氷河にも語ることができずにいた。
語ることなく、日々が過ぎ――瞬は、あの出来事を夢だったのだと思うようになっていったのである。
夢だったのだと、瞬は信じかけていた。
だが。

水色のサンダルがなかったのである。
海を見たいと訴えるナターシャに買い与えた水色のリボンのついたサンダルが。
夢の中で波間に消えていった水色のサンダルが、瞬の見た夢の通りに なくなっていた。
代わりに、ナターシャは、薔薇をかたどった飾りのついたピンク色のサンダルを履いていて、そのせいで足の甲に微かな 擦り傷ができていた。
ナターシャに バックルのある靴やサンダルを買った時には、瞬は必ず、ナターシャの足を傷付けないように店でリペアをしてもらっていた。
ピンク色のサンダルには、バックルのリペアが為されていない。
足を傷付ける履物は、歩き方をおかしくし、姿勢を崩す。
ナターシャが こんなサンダルを履くことを、“瞬”が許すはずがなかった。

なぜ、ナターシャは こんなサンダルを履いているのか。
それは、水色のサンダルが波にさらわれたから。
しかし、氷河は何も言わない。
ナターシャも何も言わない。
ワダツミの襲撃など起きなかったかのように、二人は穏やかに日常を過ごしている。
「……」

おかしい
この世界はおかしい。
ナターシャが生きている この世界は、自分のあるべき世界ではない。
それとも、おかしいのは、世界ではなく自分の方なのか。

どちらが正しいのかを確かめるために、瞬は水色のサンダルを購入した店に行ってみたのである。
店のパソコンには、瞬が10日前にサンダルのリペアを依頼し、受け取った記録が残っていた。






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