「パパとマーマが喧嘩してるぅー !? 」
ナターシャの涙ながらの訴えに、脱力しなかったと言えば、それは嘘になる。
実際 紫龍は、素頓狂な大声をあげた星矢の横で、思い切り脱力した。
地上の平和を脅かす強大な力を持つ敵の襲撃を懸念し、心身を緊張させて駆けつけたというのに、ナターシャの涙の理由は、要するに夫婦喧嘩だったのだ。
これで緊張感を保ち続けろと言われても、それは なかなか困難な要求である。

確かに、アクエリアスの氷河とバルゴの瞬が本気で喧嘩をしたら、世界が その平和な光景を維持できるとは限らないだろう。
日本の首都が氷河期に突入するとか、アンドロメダ大星雲まで吹き飛ばされるとか、それくらいのことは十分に起こり得るのだ。
だが、少なくともバルゴの瞬は説得できる相手。
『冷静になれ』と言えば、冷静になってくれる相手なのだ。
もちろん、紫龍は脱力した。
しかし、星矢は、そんな紫龍とは真逆。
ナターシャの嘆きの訳を知らされると、星矢は むしろ気持ちが高揚してきたようだった。

「すげー。氷河に、瞬と喧嘩するだけの気概があったのかよ!」
瞳を明るく輝かせて、星矢が感嘆の声をあげる。
「見直したぜ。うん。男には、負けると わかってても戦わなきゃならない時があるよな!」
氷河が一方的に負けると確信している星矢。
そんな星矢に苦笑してから、紫龍は、“負けると わかってても戦わなきゃならない男”を氷河と決めつけている自分に、重ねて苦笑することになったのだった。

「氷河と瞬は、氷河の部屋の方か」
瞬の部屋のリビングのテーブルには、グラスに入ったジュースと クッキーが載ったトレイが置かれていた。
その脇には“アルプスの少女ハイジ”のブルーレイディスクのケース。
プレイヤーの画面は、オープニングが終わったところで停止状態。
止めたのは、ナターシャのようだった。

「パパとマーマが呼びに来るまで、ハイジの お話を観てなさいって、マーマが言ってたの」
瞬の小宇宙の気配がする。
氷河と瞬は、ナターシャの身に何かあったら、すぐに気付けるように、保護責任者として為すべきことは為して、喧嘩をしているようだった。
瞬の小宇宙は穏やかで、とりあえず 氷河と瞬は小宇宙を燃やして行なうバトルはしていないらしい(当然である)。
では、二人は口喧嘩をしているのか。
そんな、小宇宙を燃やしてのバトルより、拳を交えるバトルより、敗北が わかりきっている戦いに、氷河が挑んだというのか。
氷河は、人間が最も無分別になる十代の頃にも そこまで無謀な愚か者ではなかったのに。

どういう状況でなら、氷河と瞬の間で喧嘩が成立するのか。
紫龍は、そこからして 考えが及ばなかった。
どれほど考えても思いつかなかった。
となれば、ここは、ナターシャに事情を聞くしかない。
「で? 喧嘩の原因は何なんだ」
ソファに腰を下ろし、一度 大きく嘆息してから、紫龍はナターシャに尋ねたのである。
地上の平和に関わる大事件ではなさそうだが、既に ここまで来てしまったのだ。
涙で瞳と頬を濡らしているナターシャを残して 帰るわけにもいかなかった紫龍と星矢は、とにもかくにも ナターシャから事の経緯を聞くことにしたのだった。

「パパは、ナターシャのジンセイをサユウするダイモンダイだって言ってた」
星矢と紫龍の登場で、ナターシャは心を安んじたらしい。
ナターシャの声は もう、嗚咽とは呼べないものになっていた。
「ナターシャの人生を左右する大問題?」
ナターシャの言葉を、漢字を用いて星矢が復唱する。
そうしてから星矢は、それはいったいどういう問題なのかと、紫龍とナターシャに視線で問うた。
ナターシャが、不安そうに、紫龍と星矢の顔を見上げてくる。

「ナターシャ、わからないヨー。ダイモンダイって、チジョウのヘイワがなくなること? ナターシャのダイモンダイは、パパやマーマと一緒にいられなくなることダヨ!」
自分にとっての大問題を、ナターシャはナターシャなりに 必死に考えていたのだろう。
地上の平和が失われること。
パパやマーマと一緒にいられなくなること。
普通の子供なら考えもしないことを、あれこれと思い巡らせ、不安になり、恐くなって、ナターシャは紫龍に救援を求めたに違いなかった。
小さな胸を痛めているナターシャのために、紫龍は、意識して余裕をたたえた微笑を作ってやったのである。

「俺たちが来たからには、安心していい。泣く必要はない。氷河と瞬が いつまでも仲直りをしないようなら、俺たちが氷河を叱ってやるから」
叱責の対象から、紫龍は、当然のことのように瞬を除いていた。
さすがは 聖闘士の善悪の判断を担う天秤座の黄金聖闘士。
素晴らしい判断力と、星矢は仲間の冷静に感服したのである。

「んでも、ナターシャの人生を左右する大問題って何だよ」
星矢が紫龍に問うたのは、その大問題が“ナターシャがパパやマーマと一緒にいられなくなること”ではないという結論を ナターシャの前に提示して、最悪のことを考えているらしいナターシャの中から 最悪の考えを消し去ってやるためだったろう。
実際、ナターシャが考えている“最悪のこと”は決して起こり得ないことなのだ。
自分の側に“瞬”がいて“ナターシャ”がいる現在の環境を、氷河は死んでも手放しはしないだろうから。
紫龍が、ナターシャにとっては大問題ではないが、一般的には大問題とされる問題を口にする。

「地上の平和に直接 関わりなく、ナターシャ個人の大問題というのなら――そうだな。ナターシャに集団教育を受けさせるべきか否か――ということではないか? ナターシャも いずれ就学年齢になる。幼稚園はともかく、義務教育は“義務”教育だからな。保護者には、特段の事情がない限り、子供を学校に通わせる義務がある。おそらく、氷河は反対、瞬は必要だと言っているんだろう。その気になれば、俺たちのように学校に通わずに済ませることもできるから、ナターシャの就学の是非で喧嘩にもなる」
「ああ、そりゃ、確かに大問題だ」
星矢が大きく首肯したのは、何よりもまず ナターシャの不安を消し去るためだったろうが、それが本当に“ナターシャの人生を左右する大問題”だったからでもあったろう。
確かに それは大問題だった。
「俺たちは、ガッコウなんか行かなくても、集団生活は経験してたからな。かなり偏ってはいたけど、同じ年代のガキが うじゃうじゃいる あの集団生活の中で、それなりの社会性も身につけられた」
だが、ナターシャの周囲には子供がいない。
ナターシャは、いまだかつて、一度たりとも、集団生活というものを経験したことがないのだ。

「ナターシャはどっちがいいんだ? 学校に行ってみたいのか? 行きたくないのか?」
紫龍に尋ねられると、ナターシャは 暫時 真剣な顔で考え込んでから、あまり それを“ダイモンダイ”とは感じていない、比較的 軽い口調で答えてきた。
「ナターシャは パパとマーマと一緒にいたいヨ。でも、パパとマーマがガッコウに行きなさいっていうなら、ナターシャ、ガッコウ行くヨー」
ナターシャが そういう答えを返してくるのは、彼女が 氷河と瞬を信じているからだろう。
瞬は、ナターシャの躾に際しては、いつも懇切丁寧に“なぜ ナターシャがそう振舞わなければならないのか”を説明するので、ナターシャは(基本的に 氷河も)瞬の判断と指示に 全幅の信頼を置いているのだ。

ナターシャは、むしろ、
「ナターシャ、パパとマーマが喧嘩するの、初めて見たの。パパとマーマは いつも とっても仲がいいのに、ナターシャのダイモンダイのせいで、パパとマーマは喧嘩してるの……?」
ということの方が気掛かりらしい。
もしパパとマーマの喧嘩が自分のせいだったなら。
ナターシャの不安を知って、子供は子供なりに大人のことを考えているのだと、紫龍と星矢は ある種の感動を覚えたのである。
子供の頃の瞬も こんな子だった――と。

「ナターシャのせいじゃないさ。氷河は 昔から無茶ばかりする男だったが、瞬は、氷河の無茶振りをコントロールするのがうまかったから、喧嘩になることがなかったんだ」
「瞬は我を張らずに、いつも氷河を立てるからな。どうしても譲れないことは、瞬は絶対に譲らないけど、大抵、それは正しいことだから」
しかし、問題がナターシャのこととなると、話は違ってくる。
ナターシャのことに関しては、氷河に優越権と優先権がある。
ナターシャは、まず何よりも“氷河の娘”なのだ。
瞬は、その事実を承知している。
そして、氷河は氷河で、自分の愛に盲目的なところがあることを自覚していて、だからこそ 瞬の意見を聞くようにしている。
氷河は、正当性や良識という面での瞬の卓越を認めており、瞬は、愛情面での氷河の優越を認めているから。

それで、これまでは うまくいっていたのだ。
幼稚園や保育所に――他人の手に――ナターシャを委ねられないという氷河の考えまでは、瞬も許容していたし、そのための 協力も惜しまなかった。
だが、そんな瞬にも、“義務”教育となると、ナターシャ自身の成長のためにも、氷河の望みを優先させることは容易ではないのかもしれない。






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