ともあれ、氷河と瞬の喧嘩の原因が、ナターシャにとっての大問題“パパやマーマと一緒にいられなくなること”ではなさそうなことが、ナターシャを少し冷静にしたようだった。 「喧嘩じゃなくて、イケンがタイリツすることは、これまでも時々あったんだヨ。でも、マーマが『ナターシャちゃんのためだよ』って言うと、パパはいつも マーマの言うこときくの。パパがマーマの言うこときかないなんて、今日が初めてなの」 「氷河の対応は正しい、生活の実務は瞬に任せておいた方が確実で安心だ」 「まあ、氷河も馬鹿じゃないからな」 「パパはかっこいいヨー」 会話が微妙に噛み合っていないが、ナターシャは 氷河を全肯定したいらしい。 氷河は、これまで 彼の身内と呼べる者たちが皆 そうだったように、娘からも深く愛されているようだった。 パパを深く愛している娘が、考え深げに首をかしげる。 「パパはもしかしたら、ナターシャがガッコウに行くと、ナターシャが パパのダイジなシメイをスイコウできなくなるんじゃないかって、心配してるのカナ」 「大事な使命って何だ?」 「ダイジなシメイは ダイジなシメイだよ。パパがお仕事や他の ご用事があって一緒に来られなくて、ナターシャとマーマが二人だけで お出掛けする時、ナターシャは パパからダイジなシメイを頼まれるんダヨ」 「はあ?」 まさか氷河が ナターシャに、地上の平和を守るために戦えと、そんな使命を課しているはずがない。 何をもって“普通”とするのか、その定義は人それぞれだろうが、ナターシャが“普通”の少女ではないからこそ、氷河はナターシャに普通の幸せを手に入れてほしいと願っているはずだった。 可愛らしく、素直に、健やかに、誰からも愛される娘に。 氷河が それだけを願って ナターシャを育てているのは確かである。 そうして ナターシャが幸せになった時、その幸福こそが、氷河が過去に幸福にできなかった者たち、氷河を幸福にしてくれた者たちへの せめてもの はなむけになると、氷河は考えて――もとい、無意識のうちに感じているのだ。 そんな氷河が、ナターシャに どんな使命を与えるというのか。 どんな負担を負わせるというのか。 星矢には――紫龍にも――それは全く考え及ばないことだった。 が、ナターシャは、パパに その大事な使命を任されることを 素晴らしい名誉と考えているらしい。 ナターシャは誇らしげに、氷河に命じられた“ダイジなシメイ”を氷河の仲間たちに語り出した。 「アノネ。マーマと二人でお出掛けする時に、マーマにヘンなオトコが近付いてきたら、ナターシャは 大きな声でマーマを『マーマ』って呼ばなきゃならないの。それでもヘンなオトコがマーマの側から離れなかったら、おなかが痛いとか 頭が痛いとか言って、マーマに抱きつかなきゃならないの。ヘンなオトコは、パパとナターシャからマーマを盗もうとする悪者なんだヨ。マーマは、ナターシャとおんなじくらい可愛いから、いつもドロボーに狙われてるんだって」 『あの馬鹿!』の一言を、星矢は かろうじてナターシャの前の前で言わずに済ませることができた。 その一言の代わりに、星矢は大きく長い溜息を吐き出した。 「無茶苦茶なこと言ってるな、氷河の奴」 「氷河は、瞬がアテナの聖闘士だということを忘れているようだ」 「そんなコトないヨ。マーマはとっても強いけど、優しくてアマイから、ホダサレてユダンするんだヨ。パパがそう言ってた」 「まあ、その可能性はあるかもしれないけど、それにしたって……」 「パパはマーマが大好きで、アイしてるんだヨ」 「それは、うんざりするくらい知ってるけどさあ」 それは知っているのだが、それにしても。 もし氷河がナターシャを学校に通わせたくないと主張しているのなら、ナターシャは絶対に学校に通わせるべきだと、星矢は(紫龍も)思ったのである。 ナターシャの思考は、自分が語った話のせいで、星矢たちとは別の方向に向かうことになったようだった――ある重大な事実に気付いたようだった。 困惑したような目をして、ナターシャが パパとマーマの仲間たちに尋ねてくる。 「マーマは違うの?」 「なに?」 「マーマはパパをアイしてないの?」 「は?」 「ナターシャ、マーマからダイジなシメイを お願いされたことないヨ……」 「……」 良識ある人間は、幼い娘に大事な使命を課したりしないのだと ナターシャに語ることが、星矢と紫龍にはできなかったのである。 パパから“ダイジなシメイ”を頼まれることを誇らしく思っているらしいナターシャに、どうして『氷河はただの非常識な男だ』などという本当のことを言えるだろう。 ナターシャのために紫龍が口にした説明は、 「氷河は可愛くないから、誰も盗もうとしないんだよ。だから、大事な使命は必要ないんだ」 というものだった。 ナターシャが、 「でも、パパはかっこいいヨー」 と反論してくる。 「はは。それはナターシャの目に そう見えるだけで――」 「ナターシャだけじゃないヨ。みんな、パパのこと、かっこいいって言うよ。公園で会う人も、マンションで会う人も、ナターシャのパパはかっこよくて、マーマは綺麗で優しそうで、イイネって。なのに、マーマはどうして パパが盗まれるのを心配しないの。マーマには、パパがかっこよく見えてないの?」 「そ……それは……」 どう答えれば、ナターシャを納得させるとこができるのだろう。 氷河を“かっこいい”と思ったことのない星矢には、それは途轍もない難事業だった。 紫龍も、それは同様。 しかし、紫龍は 星矢と異なり、“問題をすり替える”技を知っていた。 「そんなことはない。氷河とナターシャだけでは心配だからと言って、このマンションに引っ越してきたのは瞬の方だろう。氷河とナターシャが大好きだから、瞬はそうしたんだ」 数秒 かけて、ナターシャは紫龍の言葉を理解し、それで得心してくれたようだった。 「ソーダヨネ!」 ナターシャが嬉しそうな笑顔になるのを見て、星矢と紫龍は ほっと安堵の胸を撫で下ろしたのである。 難事業が一つ片付いたせいで、星矢は 気持ちだけでなく口まで軽くなってしまった。 「んでも、それって つまり、裏を返せば、ナターシャがいなかったら、瞬は氷河のとこに引っ越してなかったってことだよなあ」 「それは……氷河ひとりの世話をするために、わざわざ引っ越したりはしないだろう。これは ナターシャのお手柄だったな」 「ナターシャがいないと、パパとマーマは仲良しにならなかったの?」 「そうだな……。クールな大人の付き合いを続けていただろう」 してみると、今の氷河と瞬は “できちゃったから 慌てて二人の人生を考えるようになった、できちゃった婚の夫婦”と大差ないのだ。 アテナの聖闘士が。しかも黄金聖闘士が。 あまり自慢できることではないと、胸中で 紫龍は苦笑した。 「クールなオトナのツキアイってナニー?」 「うーん。それは、仕事を優先させて、二人の予定が うまく空いた時にだけ ちょっと会って、それから別々に自分の家に帰る――って感じかなあ」 「毎日一緒の方が楽しいのに、オトナのツキアイって変ナノ」 大人の付き合いをすることの意義が、ナターシャには わからなかったらしい。 今のナターシャに 自立や独立の意義と意味を説明することに益があるとは思えなかったので、紫龍も それには同感の笑みを返したのだった。 とにもかくにも、ナターシャのおかげで 氷河と瞬は 大人の付き合いをやめた。 二人は現状に満足しているだろう。 今日の二人の喧嘩の理由が何であれ、それは地上の平和を脅かすような問題ではなさそうである。 ならば、彼等の仲間は『夫婦喧嘩は ほどほどに』と二人に忠告して退散すればいい。 という結論に、紫龍が至った時。 ナターシャがまたしても、今度は別の気掛かりを語り出したのである。 「ナターシャ、一度だけ、パパがマーマを泣かせてるのを見たことあるヨ」 「氷河が瞬を?」 ナターシャを得て、誰もが羨む理想の家庭を築いていると思われていたのに、それぞれに独立した心を持つ人間が複数人 集まって生活を営むということは、どんな場合にも そう単純なことではないらしい。 傍目には理想そのものに見えている家庭にも、外からは窺い知れない様々の事件が起きているものらしい。 星矢と紫龍は、そんな 考えるまでもない当たりまえのことに、今更 気付くことになった。 この際、ナターシャの中にある気掛かりは すべて消し去っておいた方がいいだろうと考え、ナターシャに話の続きを促す。 ナターシャは、ぱちぱちと二度三度 瞬きをしてから、その時のことをパパとマーマの仲間たちに報告してきた。 「ちょっと前の夜にね、ナターシャ、喉が渇いて、お水を飲みにキッチンに行ったの。そしたら、パパの部屋から マーマが泣いてるみたいな声が聞こえてきて、ナターシャ、びっくりしたの」 「へ……」 それは、もしかして。 「マーマは、もう嫌とか、もう駄目とか言ってるのに、パパはやめないの」 それは、もしかしなくても。 星矢と紫龍は、ぎくりと身体を強張らせ、氷河と瞬の不注意(?)に 腹の中で舌打ちをした。 「あ、あー……ナターシャ、それは瞬が氷河に泣かされてたんじゃなくて、だな。えーと、つまり……」 「パパが お店のお客さんから、ジャスミンの香りのお香をもらったの。パパはお香をどうするのかわからなくて、10本くらい一度に燃やしたら、煙がすごくて、マーマは涙が出てきて泣いちゃったんだって。パパは いつもとっても優しいのに、あの時だけ意地悪になってたのカナ」 「あ……? ああ、そういうことか。俺、てっきり――。慌てて、損した」 もちろん 星矢は、氷河と瞬が 子供に見せてはならない場面を見られてしまったのだと、勘違い(?)したのである。 緊張させていた肩から力を開いた星矢を見て、紫龍が呆れた顔になる。 「星矢。おまえ、瞬より純真だな」 「へ?」 紫龍が 言葉にはせず、表情で 『氷河と瞬は そんな取ってつけたような嘘をついて、最悪の状況を ごまかしたに決まっている』と告げてくる。 星矢は口をとがらせて、 「どーせ、俺はナターシャより純真だよ!」 と、ふてくされることになった。 そこに、突然、 「何を勘繰っているの! お香の話は本当です!」 と、リビングのドアの前から鋭い声が降ってくる。 “鋭い”といっても、もともとの声が まろやかなので、その声で責められる方は、鋭い刃物で刺されるというより 真綿で首を絞められる気分になった。 「おわっ」 いつのまに来ていたのか、そこには 乙女座の黄金聖闘士、バルゴの瞬が来ていた。 「マーマ!」 ナターシャが、掛けていたソファから弾かれたように立ち上がり、歓声をあげて 瞬の手に飛びついていく。 瞬は、ナターシャを連れにきたらしい。 ナターシャの頭を撫でながら、ナターシャの身を案じて この場に駆けつけた仲間たちを、瞬は睨みつけてきた。 賢明な瞬は もちろん、睨みつけるだけで、へたなことは言わない。 「お香の話が ほんとだったとしても、アヤシイ気分になるアロマとか、そんなのだったんだろ」 これ以上 純真になってたまるかという態度で ぶつぶつ ぼやいた星矢を、瞬は、 「そんなもの、僕たちには必要ありません!」 ぴしゃりと断言して黙らせた。 瞬の自信と迫力に圧倒されて、星矢は、ナターシャより小さくなって黙るしかなかったのである。 |