ラウンジには いつものメンバーが揃っていた。 「あの男……知っているのか」 瞬に尋ねてくる氷河の声が 不機嫌の響きを帯びているのは、彼が 客人の険しい眼差しを見ていないからなのだろう。 氷河がもし、尋常の人間にしては峻厳すぎる財前氏の目を見ていたら、氷河は これほど普通に機嫌を悪くしてはいないはずだった。 「ううん。初めて会った人だよ。でも、兄さんを知ってるみたいだった」 「一輝が無分別に喧嘩でも ふっかけた相手なんじゃないのか。それで、一輝に遺恨があるとか。傍迷惑な兄貴だ。弟に厄介事ばかり運んでくる」 言葉とは裏腹に、氷河の口調から不機嫌の響きが消えたのは、客人の関心が 瞬ではなく瞬の兄の上にある可能性を知らされたから。 その変化は、実に軽微なものなのだが、明瞭でもある。 その わかりやすい変化に気付いて、星矢と紫龍は軽く肩をすくめた。 「まさか。兄さんは そんなことしないよ」 「どうだかな。一輝は、権力を かさにきて威張っている奴を毛嫌いするし」 「威張っているようには見えなかったけど……。むしろ、へりくだっていて……不自然なくらい へりくだっていて……」 それが瞬には奇異に感じられてならなかったのである。 高い地位にあっても常に他人に へりくだる人間というものは、実は かなり多い。 むしろ 上を目指している者ほど――現在 ある地位が“高い”とは言えない人間ほど――他人に軽く見られまいとして 横柄に振舞う傾向がある。 自分はトップに立っているという自覚と自負があり、他者にも そう認められている人物は、肩肘を張る必要がないせいか謙虚であることが多かった。 しかし、そういう人たちは 極端に走らない。 彼等の“謙虚”は“卑屈”にはならないのだ。 子供に不注意でぶつかってしまった時、『ごめんなさい』を言うのは 大人として正しい態度だが、『申し訳ありません』と言うのは不自然で不必要な丁寧。 むしろ礼に反した行為だろう。 財前氏の瞬に対する態度は、大人が幼い子供に『申し訳ありません』を言うようなもの。 礼法に反しているのだ。 その上。 他人に過剰に へりくだられるという経験を、瞬は冥府ででしか経験したことがなかった。 偽りの冥府の王への冥闘士たちの平身低頭。 瞬には それは 到底 よい思い出ではない――悪い思い出でしかない。 全く愉快でない記憶を呼び起こされ、いわく言い難い表情になって黙り込んでしまった瞬に、星矢は新たな情報を差し出してきた。 「今 沙織さんと会ってる おっさん、ただ者じゃないのは確かだぜ。乗ってきた車の音が普通じゃなかったから、気になって見にいったんだけどさ。あのおっさんが乗ってきた車、装甲仕様の超高級車だった。あれなら マシンガンも地雷も余裕で防げる。アメリカ大統領並みのガードだ。まあ、そんな装甲、聖闘士には無意味だけどさ」 星矢が言いたかったのは、最後の一文だったろう。 アテナの聖闘士には無意味な防備で 己が身を守ろうとしている人間は、アテナの聖闘士の攻撃を考慮していない人間。 つまり、アテナの聖闘士の敵ではない――冥府の王と関わりがあるはずがない――ということ。 実際、星矢によって もたらされた情報のおかげで、瞬の最大の懸念は消えたのである。 そうなれば そうなったで、瞬の中には 新たな疑念が生まれてきてしまったが。 「あの人、いったい どういう人なんだろう……」 「日本国内なら百傑に入るほどの資産家よ」 瞬の疑念に 一つの答えを与えてくれたのは、この屋敷の主であるところの城戸沙織だった。 てっきり客人と歓談中なのだろうと思っていた沙織の登場に、瞬は 少なからず驚いてしまったのである。 「お客様は もう お帰りになったんですか?」 「ええ。財前さんは とても お忙しい方だから。財前さんが 直接 こちらに立ち寄ってくださったのも、今日が初めてよ。たまたま 私のサインが一つ必要な書類があったから」 「日本国内で百傑とは、また微妙なレベルの資産家だな」 資産の額で 人を測るつもりはないが、それも人間の社会では一つの力である。 “日本国内で百傑”は、聖域で言うなら、白銀聖闘士レベル。 雑兵ではないが黄金聖闘士でもない――といったところだろうか。 まさに微妙な存在。 紫龍の呟きは、青銅聖闘士たちには そういう意味合いの呟きに聞こえた。 沙織がソファに掛ける様子がないのに座っているわけにもいかず、瞬が掛けていたソファから立ち上がろうとする。 沙織は、片手の指先だけで、その必要はないと、瞬を止めた。 「財前さんの個人資産は 500億レベルでしかないのだけど、彼の真の力は、その財力より、彼の持っている情報と情報操作力にあるの。彼は、企業のサイバーセキュリティの構築と運用管理をメインに扱っているIT企業のCEOで、どんな大企業でも、彼に睨まれたら、確実に潰されると言われているわ。なにしろ 今は、ちょっとした規模の情報漏洩一つで、企業の信頼が失墜する時代だから。もちろん、多くの企業は 自分の会社を守ってもらうために、彼の会社と契約をするのだけど、防御の技を知っているということは、攻撃の技術も持っているということでしょう。伝説にすぎないのだけど、彼は今の会社を興した時、幾つもの企業のオンラインシステムをハッキングして、その企業のオンラインシステムの脆弱性を示し、自社のセキュリティシステムを売りつけた――と言われているわ。彼は、自分の会社に凄腕のハッカーを幾人も抱えていて、その防御力と攻撃力は 同業他社の追随を許さない。決して敵にまわしてはならない人物よ」 沙織は――女神アテナではなく、グラード財団総帥としての城戸沙織は――誇張ではなく、いたって真面目に彼の力を恐れている――少なくとも軽視はしていない――ようだった。 沙織が にこりともせず 真顔で 財前氏のプロフィールを語るので、星矢としては、その場のシリアスで重々しい空気を吹き飛ばさなければならないという使命感に かられたらしい。 星矢は、財前氏の力を、白銀聖闘士ではなく青銅聖闘士のそれに なぞらえることで、己が使命を果たそうとした。 「防御力と攻撃力を兼ね備えてるって、攻防一体のネビュラチェーンみたいな男だな」 「それは、確かに敵に まわしたくない人物だ」 紫龍が 瞬の上に視線を巡らせて、目許だけで笑う。 だが、沙織は真顔を崩さなかった。 「若い頃に苦労されたからなのか、知らずにいた方が幸せな情報を多く知っているせいなのか、彼は人間不信や人嫌いの噂があるような方なの。滅多に他人に関心を抱かない。なのに、そんな財前さんが、妙に瞬のことを気にしていたのよ。瞬の境遇や 人となりを。一応、私の親族のようなもので、優しさが服を着て歩いているような子だと答えてはおいたのだけれど……」 人嫌いの噂があるような人物に 関心を持たれることに心当たりはあるのかと、視線で沙織に問われた瞬は、首を左右に振った。 「今日 初めて会った方です」 「50のおっさんでも60のじいさんでも、美少女は気になるだろ。いつものことじゃん」 そんなことを なぜ不思議がるのかと、それこそ不思議そうに、星矢が 瞬と沙織の顔を交互に見やる。 それで氷河が機嫌を悪くしても、そんなことに頓着する星矢ではない。 不機嫌になった氷河を なだめるためにではなく、事実の報告として、瞬は、 「そういう目じゃなかったんだよ」 と、星矢に告げた。 「じゃあ、どういう目だったんだ?」 と問い返されて、瞬は答えに窮したのである。 あの目を何に例えればいいのだろう。 瞬には、咄嗟に適切な言葉が思い浮かばなかった。 しいて言うなら――。 厚い氷に閉ざされていた極北の大地が、世界には春という季節を思い出したような目。 行方不明になっていた愛犬と、数年の時を経て再会できた少年のような目。 そして、その事実を喜びたいのに、どう喜べばいいのかが わからず戸惑っているような目――? やはり どうしても適切な表現は思い浮かばなかったが、ともかく、財前氏の目は 絶対に、特殊な容姿を持った人間に興味を抱いた人間のそれではなかった――と思うのだ。 氷河は、財前氏の振舞いより、瞬が いつまでも今日初めて会った中年男のことを考えている状況の方が 不快になってきたらしい。 「あの男は もう帰ったんだろう? 二度と瞬に関わらないなら、どうだっていい」 そう言って、氷河は瞬の思索を強引に終わらせたのだった。 |