瞬が再び“財前”の名を聞くことになったのは、それから3日後。
財前氏の子息が城戸邸を訪ねてきた時だった。
沙織は不在。
彼がアポイントメントも取らずに城戸邸にやってきたのは、もしかしたら 彼が“目的の人に会えないのなら、その方がいい”と考えていたからだったのかもしれない。
彼は、名指しで瞬との面会を求めてきた。

タイミングがいいのか悪いのか、財前Jr氏が城戸邸を訪れた時、氷河は、城戸邸のワインセラーの空調の調子が悪いと訴えるメイド頭の依頼で、紫龍と地下フロアに行っていた。
星矢は瞬とラウンジにいたのだが、天馬座の聖闘士は 白鳥座の聖闘士と違って、瞬が一般人の男性と二人きりで閉鎖空間にいることを危険と見なす思考の持ち主ではない。
そういう事情で、瞬は客間に通された財前Jr氏と二人きりで会うことになったのである。
なぜ 彼が城戸邸の居候(のようなもの)である瞬を名指しで訪ねてきたのか、その理由は わからないままで。


財前氏の子息は、20代半ば。
父親に似ず、平均以上に背が高く、均整の取れた体躯の持ち主だった。
顔立ちは 決して整っているとはいえないのだが、おそらく知性が 彼の印象を“端正”にしている。
身にまとっているスーツは、トラディショナルな英国風。
眼光には 父親ほどの鋭さはないが、優しい目でもない。
だが、決して 物事に無感動無関心なわけでもなく――感情を表に出さない訓練を受けた軍人のような青年――という印象を、瞬は彼に対して抱いた。

瞬が客間に入っていくと、彼は 掛けていたソファから 機敏な所作で立ち上がった。
そして、
「瞬さん。ですか」
と尋ねてくる。
そう尋ねてくるからには、初対面である。
「はい」
瞬が頷くと、彼は無言で まじまじと瞬を見詰め――確実に2分以上、値踏みするような目で見詰め――その後、困ったように嘆息した。

「あの……僕がどうか」
人に見られることに慣れているといっても、露骨に検分されているとわかる見方で見られるのは、気分のいいことではない。
居心地の悪さに耐えきれなくなって、瞬は彼に 彼の用件を尋ねようとしたのである。
財前Jr氏は 人の話を聞くことが嫌いなのか、瞬の質問を彼の質問で遮ってきた。
「あなたには、ご両親が亡く、兄が一人いるだけ。城戸家とは血縁があるわけではなく、俗に言う居候。ご自分の財産は何もない。いわば無一物。沙織さんに この家を出て行けと命じられたら、ホームレスになるしかない不安定な身分。――の瞬さんで、間違いありませんか」

なぜ そんなことを訊かれるのかと訝るより先に、氷河がこの場にいなくてよかったと 瞬は思ってしまったのである。
もし ここに瞬がいたら、彼は財前Jr氏の不躾に憤慨し、殴り倒すことまではしなくても、空調が壊れていることにして財前Jr氏に凍傷を負わせるくらいのことはしていたかもしれなかった。
だが、幸い 氷河は この場におらず、財前Jr氏の言うことは事実だったので、瞬は気軽に、
「はい」
と言って首肯した。

首肯して、瞬は再度、この場に氷河がいなかったことを、心の底から神に(どこの神というわけでもないが)感謝することになったのである。
財前Jr氏は、自分の確かめたいことを確かめると、あろうことか、
「父に、あなたを妻に迎えるよう、命じられました」
と言ったのだ。
本物の軍人より抑揚がなく感情の感じられない声で。

「は?」
何を言われたのかがわからず、瞬が 間の抜けた声を洩らす。
「もし、その命令に背いたら、私は父に親子の縁を切られる」
瞬が 何を言われたのか わかっていないことを、財前Jr氏は わかっているはずだった。
実際、何を言われたのか わからず、瞬は ぽかんとすることしかできずにいたのだから。
瞬が事情を呑み込めていないことを わかっていながら、財前Jr氏は彼の言葉を続けているのだ。
「求婚を前提とした お付き合いを、希望します」
と。
“結婚を前提した”でないところが微妙である。
そして、彼は本当に 人の話を聞くことが嫌いらしかった。
自分の言いたいことだけを、彼は言い募る。

「私は、就学前に両親を事故で亡くし、養護施設で育てられました。6年前、高校を卒業し、施設を出なければならなくなった際、現在の養父である財前に見込まれて、学費を出してもらい、大学に進学し、情報工学を学んだ。おそらく その成績が 財前の期待に沿うものだったのでしょう。在学中――3年前に、養子として財前の家に迎え入れられました」
「そ……そうなんですか……」
「私は、親族のいない父の事業を継ぐべく、財前に引き取られた人間です。父には逆らえません。父に勘当されたら、それこそ一文無しになる。無論、それなりの才覚はあるつもりですが、私は、現在の地位も環境も失いたくない。現在の仕事に やり甲斐を感じているし、私を現在の私にしてくれた父に感謝もしている。できることなら、父を喜ばせたい」
「あの……」
「血のつながらない私を後継者にした父は血縁を重視しない人間だ。決して冷血漢ではないが、才能と努力、実力と成果に何より大きな価値を置いている。そんな父が、なぜ あなたを 財前の後継者の配偶者と見込んだのだ」
「……」
そんなことを言われても、財前氏ならぬ身の瞬に、財前氏の考えがわかるはずもない。
――と訴える時間すら、財前Jr氏は瞬に与えてくれなかった。

「確かに あなたは美しい。凡百の人間ではないと感じる。その澄んだ瞳は尋常のものではない。あなたを妻に得る男は世界一の果報者になるか、あるいは最も不幸な男になるでしょう。しかし、若すぎる」
「あの……財前さん……」
「なぜ父は、そんなにあなたが気に入ったのでしょう。あなたは特殊な技術をお持ちなのか。聡明そうではあるが」
自分の言いたいことだけを言い、質問をしておきながら その答えすら待たない求婚者に、瞬は、
「何かの間違いでしょう」
と答えるのが やっとだった。
その瞬の返答を無視して、財前Jr氏は更に畳みかけてくる。

「ですが、あなたは城戸家に引き取られた孤児で、肉親は兄が一人いるだけの瞬さんなんでしょう?」
「え……ええ」
「ならば、間違いではありません。父は、あなたを妻に迎えろと言った。それができないなら、私との養子縁組を解消し、財前の財産と権利を すべて あなたに譲るように、遺言状を書き変えるしかないと言った」
「……」

いったい財前氏は何を考えているのか――。
沙織は、財前氏を日本国内百傑に入る資産家だと言っていた。
たとえば、財前氏が天涯孤独の身の上で、自分の死後、資産を国に取られるのが癪だとでもいうのなら、血がつながらなくても知り合いに贈りたいと考えることもあるかもしれない。
だが、後継者と見込んだ人物が既にいて、その人物と養子縁組までしているのに、それを破棄して、昨日今日 出会ったばかりの子供に数百億の資産を贈るなど、常識的な人間の考えることとは思えない。
そんなものを押しつけられても困る。
何より、財前Jr氏に申し訳ない。
財前Jr氏は、養父である財前氏を嫌ってはいない――むしろ(かなり不器用そうにではあったが)慕っているようなのに。
血がつながっていないとはいえ、父親を慕う息子の心を傷付けてまで、そんな暴挙に及ぶ必要が どこにあるというのか――。

そんなふうに困惑する瞬に、財前氏の不器用そうな息子は、思いがけない推察を投げかけてきた。
「もしや、あなたは父の隠し子――表沙汰にできない事情のある実子なのか? それで、父は自分の財産をあなたに渡したいと思っているのか? 確かに、あなたを私の配偶者にするというのは、面倒な手間をかけずに 最も手っ取り早く、父が自分の財をあなたに渡す方法だが」
「まさか。それなら、兄が僕に何かを知らせているはずです」
「あなたも あなたの兄君も、その事実を知らないだけなのかもしれない。財前とのつながりに、何か心当たりは? 財前という名に どこかで接したことは?」
「……」

財前Jr氏は、人の話を聞くのが嫌いなわけではないようだった。
そうではなく――彼は、身寄りのない孤児だった彼を引き取り、生活の面倒を見、教育の機会を与えてくれた養父を、血を超えたところで、実利を超えたところで、“父”と思っているのだ。
そして、財前氏も、自分に対して何らかの情を抱いてくれているものと信じていた。
彼に そう信じさせる何かが、財前氏にもあった――おそらく財前Jr氏は そう感じていた。
だからこそ、父にとって 自分が 都合が悪くなれば すぐに捨てられる石ころのような存在だと思いたくなくて――喋り続けることで、余計なことを考えず、瞬に妬みの感情を抱かずにいようとしている。
彼は今、必死に自制しているのだ。
でなければ、この矢継ぎ早の質問――答えを待たずに 新たな言葉を募り続ける彼の態度に 説明がつかない。

彼は、父を失いたくないと思っている。
そのためになら 父の無謀な願いも叶えたい――叶えることができる。
それが、財前Jr氏のスタンスなのだ。

「私が収集できる ありとあらゆる情報を集め 調べたが、あなたには、父とのつながりどころか――そもそも、あなたに関する個人情報は どんなデータベースにも存在しなかった。現在のネットワーク社会で、こんなことは あり得ない。あなた名義のクレジットカードやキャッシュカードの存在は認められるのに、我が社のプロクラッカーチームに探らせても、彼等は あなたの いかなる個人情報にも辿り着けなかった。あなたは、グラードより更に大きな力に守られているのか」
「個人情報も何も……僕は ここにいますよ」

ネットワーク上に情報のない人間は 非常識で奇怪な存在と信じているらしい財前Jr氏の認識を正す振りをして、瞬は 彼の追及を ひとまず 躱した。
それで 財前Jr氏が納得してくれたとは 到底 思えなかったのだが、ともかく 瞬は、何とか理由をつけて 彼にお帰り願うことに成功したのである。
「お父様は、何か ちょっとした誤解をしていらっしゃるのだと思います」
財前氏の気の毒な子息に、瞬は幾度も そう繰り返した。






【next】