へたな小細工を弄するより、正面切って直接 話し合う方が 手っ取り早い。
それが、沙織の講じてくれた策とも言えぬ策だった。
海千山千のグラード財団総帥にしては 単純すぎる策だが、“大物には特攻”を身上にしている女神アテナらしい策と言えば、そう言えないこともない。
沙織が、大物とはいえ神ではない人間に対して、『搦め手からではなく正面から迫るしかない』と判断したのは、財前氏には悪意も他意も害意もないと、彼女が判断したからだろう。
だが、だからこそ 瞬は、財前氏との対決に緊張を余儀なくされたのである。
悪意も他意も害意もない人にあるのは、誠意、真心。
瞬は、そんな人を傷付けるわけにはいかなかったから。

沙織が、瞬と財前氏の会談の場をセッティングしたのは、城戸邸の客間。
氷河が同席すると言い張り、そんな氷河を見張るために、彼の仲間たちと沙織も同席。
4人ものオブザーバーがつくことに、当初 財前氏は難色を示したが、『皆、瞬のことを心配しているのです』という、ある意味 かなり失礼な沙織の説明で、財前氏は『それは当然のことです』と納得してくれたらしい。
そこからして、財前氏に悪意がないのは事実のようだった。

財前氏が、会談の場で、挨拶らしい挨拶もなしに、
「私の息子の妻になれば、瞬さんは 一生 何不自由のない贅沢な暮らしができるでしょう。誰に虐げられることもなく、むしろ 多くの人間を支配する側の人間になることができる。世界を支配することもできる。そう お約束いたします」
と、単刀直入に用件に入ったのは、それこそ“人を支配する側”の人間らしい振舞いだったのかもしれない。
氷河が早速、むっとした顔になり、眉を吊り上げる。
瞬と沙織が掛けている長ソファの背後に控えていた星矢と紫龍は、そんな氷河を両脇から取り押さえた。
瞬が財前氏の厚意――おそらく厚意なのだろう――を、謹んで遠慮する。

「僕は、そういうことには興味がないんです」
「ええ、存じています。あなたは そんな方ではない」
「あの……できれば、敬語をやめていただけませんか」
「そうはいきません。あなたは私の天使――いいえ、瞬さんは、私にとって神にも等しい方だ」
「は?」
ただ者ではないのだろうし、大物ではあるのだろうが、財前氏は どう見ても普通の人間――生きている普通の人間である。
今のところは まだ、冥府とは どんなかかわりもないだろう。
だが、では、どんな人間なら 城戸邸の居候にすぎない一介の孤児を“神”に例えるのか。
困惑する瞬に、財前氏は、彼が瞬を“神にも等しい”と思うようになった経緯を語り出した。
支配者の目、権力者の目、強者の目ではなく、むしろ 人生の戦いに敗れた人間のそれにこそ似た眼差しで。

「既に お聞き及びかもしれませんが……。10年ほど前、私は、私が起業して20年の月日をかけて大きくした会社を、信頼していた部下の裏切りに会い、失いました。多額の負債を抱えることになった私は、私財すべてを借金の返済に充て、最終的にホームレスにまで落ちた。事業が順調だった頃には、私にすり寄ってきていた者たちは、一斉に私に背を向けた。その中には、私が友人だと思っていた者も多くいたのですが、落ちぶれた私に 彼等は見向きもしなかった。むしろ積極的に避けた」
「それは……」
瞬が痛ましげな目で財前氏を見詰めると、彼は片手をあげて、瞬の同情を遮った。
「彼等の振舞いは、妥当で当然のものでした。私は傲慢な人間だった。人に 友と思ってもらえるような男ではなかった」
「でも……」
瞬が言葉を続けることができなかったのは、財前氏曰く“妥当で当然”のことをした人たちを、事情も知らない自分が責めるわけにはいかないと思ったから。
財前氏も、そんなことは望んでいないようだった。

「両親も亡くしたばかりでしたし、あの頃はホームレスの救済など無いも同然で――いや、憎しみとプライドが邪魔して、私は誰にも すがれなかったのです。そりの合わない叔父が一人いたが、私は彼に頭を下げることもできなかった。そんな無様なことは、死んでもできないと思っていた」
財前氏が友(だと思っていた人々)にも近親にも 公的機関にも頼れなかったこと自体は、瞬にも全く理解できないことではなかった。
同じ立場に立たされたなら 自分も財前氏と同じように振舞うかもしれないと、瞬も思う。
ただし、“憎しみやプライドに邪魔されて”ではなく、そういった人たちに“迷惑をかけたくないから”。
財前氏の行動は理解できるのに、瞬は彼の考えは理解できなかった――行動の そもそもの起点が、瞬と財前氏では全く違っていた。

「汚れ疲れ果てて絶望した私は死を願った。願わなくても、死ぬしかないと思った。教会で死ねば、墓くらいは作ってもらえるかと考えて――私は無宗教の人間だったのですけれどね――ある小さな教会に行ったのです。おそらくプロテスタント――古い飾り気のない教会で、いかにも人が好くて貧乏な神父――いや、牧師か、そんな人がいそうな教会でした。それも 私の勝手な思い込みにすぎなかったのでしょうが、私の望みは 救われることではなく 死ぬことだったので、その思い込みの真否など どうでもいいことだった。ともかく、私は、古い小さな教会の裏庭の隅に こそこそと潜り込んだのです。そこで、私は小さな天使に会った」

天使。
それは、小国の政府の一つ二つを転覆できるほどの力を持つ、分別盛りの男性が口にするには 違和感が大きすぎる言葉である。
しかし、財前氏は、実に堂々と その言葉を口にした。






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